コント書きの仕事が軌道に乗り始めた頃、人気歌手・水原弘さんに誘われ、水原さんの付き人となると、いきなり、勝新太郎さんのもとで修行することになった、なべおさみさんですが、修行を終え、水原さんの付き人として働き始めると、ある大物の目に留まります。
「なべおさみが若い頃は勝新太郎のもとで修行していた!」からの続き
「渡辺プロダクション」社長・渡辺晋の目に留まる
京都の勝新太郎さん宅での3ヶ月間の住み込み修行を終え、東京に戻られたなべさんは、その翌年の1961年、「渡辺プロダクション」の渡辺晋社長の誕生日パーティーに、水原弘さんの付き人として参加されたそうですが、
水原さんの退出を待ちながら、玄関で招待客の靴を一足一足きれいに並べていると、
背後から、
おい、君は誰だ?
と、声がし、
腰をかがめた状態で半身で振り向くと、和服姿の渡辺社長と、その後ろに奥さんの渡辺美佐副社長が立っていたそうで、
とっさになべさんが、
水原の付き人の・・・なべといいます。
と、答えると、
(デビュー前のなべさんの名前は「渡辺修三(わたなべ おさみ)」(本名)だったのですが、渡辺社長と同じ渡辺という名前ということが恐れ多く、なべと名乗ったのだそうです)
社長は、
ふうーん・・・
お前、出世するかもしれないな。ふーん・・・
明日、午後一時、事務所に来い
と、言ったのだそうです。
そして、その後、美佐夫人が、
頑張りなさいね
と、言ったそうですが、
なべさんはというと、二人が2階に上がっていくのをボーッと見つつ、呆けたように立ち尽くしたのだそうです。
「渡辺プロダクション」社長・渡辺晋に気に入られる
実は、この時、なべさんは、
私の体の中に木下藤吉郎(豊臣秀吉の若い頃の名前)が入り込んできたのです。そして、この日から何を隠そう、渡辺晋さんは私の生涯のお屋形様・信長様になったのです
と、以来、渡辺社長を崇拝し、信奉するようになっていったそうですが、
さておき、翌日、なべさんが事務所に行くと、
渡辺社長は、
なべ、今月から俺のポケットマネーで毎月五千円やろう。それで本買ったり映画観たりして勉強しろよ。いいな!
と、言って、5千円をくれたのだそうです。
(それはなべさんが1964年4月にデビューするまで続いたそうです)
また、やがて、様々なショーを観に行って、そのレポートを提出するという秘密の任務も任されたそうで、なべさんは、売出し中だった、ザ・ドリフターズ、ザ・ピーナッツ、中尾ミエさん、ハナ肇とクレージー・キャッツなどのショーの感想を書いては提出し、渡辺社長からの信頼を勝ち取っていったのだそうです。
「渡辺プロダクション」の隠密(スパイ)をしていた
そんな中、なべさんは、12月30日の夕方、渡辺社長から、すぐに家まで来いという電話を受け取り、慌てて飛んでいくと、社長と仲の良いごく一部の人しか通されることのない特別な和室に通されたそうで、そこには、渡辺社長と美佐夫人が待っていたそうですが、
社長が真面目な顔をしていたことから、最近何かやらかしてしまったのではと、頭をフル回転させて思い出そうとしていたそうですが、
来年から、お前に役目を一つ請け負ってもらいたい
来年からお前は渡辺プロのために、隠密(おんみつ=スパイ)になって働いてもらいたい
と、命じられたのだそうです。
というのも、毎年たくさんのタレントが「渡辺プロダクション」から誕生するも、他社のタレントたちの話を聞いて、「渡辺プロダクション」の待遇に不満を持つ者が出てくることから、
そんなタレントの話を聞き、一緒に文句を言いながらも、
だけどな、渡辺プロは力があるし、ここを出ない方が得策だと思うぞ
俺が上手に、社長にそれとなく話してみるから、その不満はそれまで自分の胸にしまっとけ。人に言うと曲解されて話がこわれちゃうからね。一寸待って任せてくれ
と、相手にさとられないように、上手に事務所側に導くよう申し付けられたのでした。
森進一や加賀まりことの橋渡し役もしていた
こうして、なべさんは、何人もの若手タレントの相談に乗るようになると(時には恋愛相談なども)、調整や交渉などの才能を発揮したそうで、
中でも、森進一さんは、ヒット曲を連発していた頃、独立を画策していたそうですが、なべさんは、森さんの不満を聞いて、渡辺社長に進言し、待遇改善に努めるなどして、独立を阻止し、
(待遇改善の結果、森さんはなべさんの年収を月収で稼ぐようになったそうです)
加賀まりこさんも、未婚で出産することを決意し、世間から激しいバッシングに遭って雲隠れしていた時、居所を突き止め、渡辺社長との橋渡し役を務められたのでした。
「なべおさみは昔シャボン玉ホリデーのキントト映画でブレイクしていた!」に続く