1961年に「日活」に入社して以来、数多くの青春映画に出演し、「日活3人娘」として人気を博すと、1963年、15歳の時には、映画「非行少女」で演技派女優としての地位も確立された、和泉雅子(いずみ まさこ)さんですが、1983年、テレビ番組の企画でレポーターとして南極に訪れると、小学生の頃に抱いていたという南極越冬隊への憧れが目覚めます。
「和泉雅子のデビューからの出演ドラマ映画を画像で!」からの続き
南極に魅了される
実は、和泉さんは、1989年5月10日、日本人女性初の海氷上からの北極点到達を果たしているのですが、その前に、テレビ東京の企画で、1983年の暮れから翌1984年の正月にかけての20日間、レポーターとして南極に行かれており、その時、
なぜ北極点を目指したのか、いまだに理由がわからないのですが、初めて南極の景色を眺めて、驚きました。
私は銀座の出身なので、いつも、突き当たりのある景色の中にいましたから、南極の空と海ばかりの雄大な景色を見て、「あっ世界にはこんなとこもあるんだな。」と感激しました。
と、その雄大な景色に魅せられ、今までの生き方がセコセコしたものに思え、心底うちのめされたそうで、
南極の景色は見たので今度は反対側の、あの地球儀の鋲が止まっている北極点の景色が見たい、という気持ちが遠征隊へと発展したんです。
と、南極から帰る時には、既に漠然と「北極」を意識されていたのだそうです。
南極での和泉さん。
北極へ行く準備を始める
そして、南極から帰国後は、翌月の2月には「大川橋蔵特別公演 雪の渡り鳥」(大阪・新歌舞伎座)、6月には高橋英樹さんと「遠山の金さん」に出演されているのですが、
その間も、頭は北極のことでいっぱいで、着々と北極へ行く準備を開始しつつ、冒険家・植村直己さんの書籍を読んでいたといいます。
(植村さんは、1978年4月29日に世界初の犬ぞりでの北極点単独到達を果たすと、1984年2月12日にはマッキンリーで世界初の厳冬期単独登頂を達成されたのですが、下山中に消息不明となりました)
ヤマト運輸の小暮昌男社長に協力してもらっていた
中でも、まず初めに考えたのが、資金集めで、実は、和泉さんは記念写真が大好きだったことから、南極では、和泉さん本人が、2000枚以上の動物や風景の写真を撮っていたそうで、
これらの写真を写真集にして売ることを思いつき、知り合いのグラフィックデザイナーに頼み込んだそうですが、「こんなピンぼけはダメ」と言われてしまったそうです。
それでも、しつこく粘り、なんとか本を作ってもらえることになったそうですが、今度は、たとえ自費出版しても、誰が買ってくれるのだろうか、と考えた和泉さんは、宅配便のテレビCMに出演した際にお世話になった、ヤマト運輸・小暮昌男社長にお願いすることに。
すると、小暮社長は、まだデザインしかできていなかった写真集をポケットマネーで買ってくれ、各営業所経由で保育園などに配布してくれたそうで、その後、本の販売活動を開始すると、最終的には、無事、資金を集めることができたのだそうです。
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「和泉雅子の南極 白いメッセージ 83~84」(自費出版)