1983年の暮れから翌1984年の正月にかけての20日間、テレビ番組の企画でレポーターとして南極に行ったことでスイッチの入った、和泉雅子(いずみ まさこ)さんは、今度は、北極点到達を目指し、準備を開始すると、徐々に協力者を得て、北極点到達が現実味を帯びてきます。

「和泉雅子は南極レポーターの翌年に北極点到達を目指していた!」からの続き

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北極行きを冒険家・植村直己の妻に相談していた

資金集めのため、ヤマト運輸・小暮昌男社長の協力を得て、南極で撮影した写真の写真集を販売することに成功した和泉さんは、次は、専門家のアドバイスをもらおうと、冒険家・植村直己さんの妻・公子さんに連絡を取ったそうですが・・・

電話でいろいろと話しをした後、

実は北極点に行きたいんです

と、本題を切り出すと、

公子さんは、驚いたように、「なんで?!」と反対。

それでも、和泉さんが、めげることなく相談すると、公子さんは、その時、西武百貨店で開催中だった「植村直己展」の会場を訪れていた、多田雄幸(ただ ゆうこう)さんに相談することを勧めてくれたのだそうです。

(多田さんは、植村さんの北極点単独行きのサポート隊員を務められているほか、1982年には、世界一周単独ヨットレース「アラウンド・アローン」に自作ヨット「オケラ5世号」で出場し優勝されているのですが、1991年に自殺されています)

冒険家・多田雄幸に引き止められるも・・・ますます行ってみたくなる

そこで、和泉さんは、多田さんに会いに行ったそうで、一緒に食事をしながら計画を説明すると、多田さんは、食事の後、「植村直己展」会場を案内してくれたそうですが、

植村さんの北極点の写真を指差し、

あなたにこんなに大変なことができますか。無理でしょう

などと、問い詰めてきたそうです。

それでも、和泉さんが、

面白そう、ますますやってみたい

と、目を輝かせながら答えると、

その後、多田さんは公子さんに、「もう止められませんね」と電話したそうで(実は、公子さんが、多田さんを使って和泉さんを止めさせようとしていたのだそうです)、

和泉さんの決意が固いことを改めて知った公子さんは、世界一、北極に詳しいといわれている、五月女次男さんという方を紹介してくれたのだそうです。

(五月女さんは、北極経験25回というベテランで、1978年4月26日には日大隊(日本大学山岳部)の一員として、日本人初の北極点到達を果たされています。植村さんが単独で初めて北極点到達を果たされたのは、この3日後だったそうです)

五月女次男にベーゼル・ジェスダーセンを紹介してもらう

こうして、和泉さんは、五月女さんに会いに行き、計画書を見せたそうですが・・・

五月女さんからは、

こんな甘い計画では無理。予算もかなり違っています

と強烈なダメ出し。

さすがに落ち込んだ和泉さんでしたが、何時間も話した結果、1人で行くのは無理だけど、方法は無くもないと言われ、少し希望がわいてきたそうで、

数日後、五月女さんに合うと、五月女さんは、カナダのレゾリュートというところに住む、現地コーディネーターの、ベーゼル・ジェスダーセンさんに電話をしてくれたそうで、その時、ベーゼルさんが何とかなるかもしれないと、力になってくれることを約束してくれたのだそうです。

(レゾリュートは、高倉健さん主演の映画「南極物語」(1983)のロケが行われた場所で、ベーゼルさんが現地コーディネーターを務められたそうです)

父親を説得

その一方で、和泉さんは、厳格なお父さんをどう説得しようかといろいろと思案したそうで、

(和泉さんとしては、凍傷で鼻がもげたら付け鼻をすればいいと思うほど、北極に魅了されていたそうですが、そんな娘をお父さんが理解できるはずもなく、お父さんを納得させるには、いろいろ作戦を考えなければならなかったそうです)

まず、お父さんに、

宇宙に行っていい?

と、切り出すと、

作戦通り、お父さんは、

絶対ダメだ。地図がないようなところはダメだ

と、言ったそうで、

和泉さんは、お父さんの前に地球儀を持ち出して、

ここに行く

と、北極点を指すと、

お父さんは、ぎょっとしたものの、最終的には、地図に載っているところということで、許してくれたのだそうです♪

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北極行きを周囲に伝えるも誰からも相手にしてもらえなかった

そして、和泉さんは、舞台の共演者たちにも、北極に行こうと思っていることを伝え、

放送作家のはかま満緒さんと日テレを退職されたばかりの井原高忠さんがMCを務める、NHKラジオの生番組「日曜喫茶室」にゲスト出演された際にも、北極に行こうと思っていることを伝えたそうですが・・・

はかまさんらには、

和泉は頭がおかしくなった

という雰囲気で軽く流され、

さらには、記録ビデオを撮ってもらおうと、制作会社に電話をしても、「いないと言っとけ」「ほっとけ」などと、本気にしてもらえなかったのだそうです。

「和泉雅子は石井ふく子に北極点挑戦後の仕事を約束してもらっていた!」に続く

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