幼い頃から憧れていたピアニストを目指し、高校卒業後には、ロサンゼルス音楽学校に入学するも、才能の限界を感じ、興味を持った医学の道に転身した、ダスティン・ホフマン(Dustin Hoffman)さんですが、医学でも挫折。そんな時、ひょんなことから俳優を目指すこととなります。
「ダスティン・ホフマンは幼少期ピアニストを目指していた!」からの続き
医学の道に挫折し大学卒業の単位取得のために演劇科を選択
幼少期から目指していたピアニストを断念し、医学の道に進むべく、サンタモニカ州立大学に入ったホフマンさんですが、成績はかんばしくなく、1年目にして落第。
医学でも挫折したホフマンさんは、これからどうすればいいのか途方に暮れたそうですが、そんな中、「演劇科には落第者がいない」と聞きつけ、演劇科を選択すると、翌年の1956年には、「パサデナ劇場」で演技を学び、1958年には、無事、単位を取得し、大学を卒業することができたそうです。
演技だけには夢中になれたことから俳優を志す
そして、ホフマンさんは、この時、俳優になろうと決意したそうですが、
実は、ホフマンさんは、10代の頃、コメディアンのように振る舞っていたことから、フットボールチームと野球チームのキャプテンをしていたお兄さんと比べられ、
いつも、周囲から、
お前はコメディアンだ
お前は本当の負け犬だ
などと、言われ続けていたことから、
本当に自分が負け犬だと思い込み、何をしても夢中になれるものがなかったそうで、そんな中、演劇だけは楽しいと思ったのだそうです。
ジーン・ハックマンと共同生活を送るも鳴かず飛ばずの日々
そんなホフマンさんは、「パサデナ劇場」でジーン・ハックマンさんと知り合うと、大学卒業後は、ニューヨークに拠点を移したハックマンさんを追って、ニューヨークに移り、ハックマンさんのほか、ロバート・デュバルさんを加えた3人で共同生活をしながら、演技の仕事を探したそうですが、
コマーシャルの仕事や、時々、端役でテレビドラマに出演するも、それだけでは生活が苦しく、一時は俳優の仕事を中断し、教員をしていたこともあったそうで、
その後、リー・ストラスバーグさん主宰の演劇専門学校「アクターズ・スタジオ」に通い、演技の勉強を始めるようになるのですが、
やはり、生活のため、ダンスホールのピアノ弾き、精神病院の付添人、ウェイター、皿洗い、ビルの清掃人、百貨店のおもちゃ売り場係など、様々なアルバイトをしつつ、チャンスをうかがったのだそうです。
「Yes Is For A Very Young man」で初舞台
しかし、なかなか芽が出ず、苦しい日々の中、やがて、自分が俳優になれるとは考えられなくなってしまったそうで、ついには、俳優の道をあきらめ、演出家になろうと、演出助手として働き始めたところ・・・
ある演出家が、ホフマンさんの俳優としての個性に目を留め、セイラ・ロレンス大学が上演したガートルード・スタインの小説を原作とする舞台劇「Yes Is For A Very Young man(若者にはイエス)」に脇役ながら、出演させてくれたそうで、
以降、ホフマンさんは、数々の舞台に出演するようになると、1966年には、「JOURNEY OF THE FIFTH HORSE(第五番目の馬の旅)」の演技で「オビー賞」を獲得し、一躍、注目を集めたのでした。
ちなみに、長い間、なかなか芽が出ずにいたホフマンさんが、なぜ、突然、トントン拍子で成功の階段を上っていったかというと、
ホフマンさんの演技の才能が開花したのはもちろんのこと、この時期、ちょうど、「ニューシネマ」時代が到来し、従来の二枚目スターではなく、型破りなパーソナリティーを求めて、時代が変わりつつあったことから、ホフマンさんもうまく時流に乗ったのでした。
(※「ニューシネマ」とは、ベトナム戦争の影響で、反体制的な人間の心情が描かれ、主人公は英雄ではなく、体制から脱落した人物となっており、現実批判が提起されるような作品のこと)
「ダスティン・ホフマンが若い頃は「卒業」で脚光を浴びていた!」に続く