3歳の時に患った「ポリオウィルス」(小児麻痺)の後遺症で脚が不自由となると、内気な性格となり、少年時代は漫画家を目指し、漫画雑誌に投稿を続けていた、泉谷しげる(いずみや しげる)さんですが、やがて、音楽に目覚め、本格的にギターを始めると、ロックバンドを結成します。
「泉谷しげるの生い立ちは?少年時代は漫画家を目指し才能も!」からの続き
高校を中退し画家を目指してデザインスクールに通っていた
少年時代は、漫画家を目指し、漫画雑誌に作品を投稿していたという泉谷さんですが、1963年、15歳の時には、友人から、「ギターを持って立っているだけでいい」と頼まれ、イギリスのロックバンド「ローリング・ストーンズ」のコピーバンドに参加したことがきっかけで、ギターを始めたそうです。
とはいえ、この時はまだ、それほど音楽に興味があった訳ではなく、中学を卒業をして高校に進学するも、坊主頭にしなければならなかったことや、体育会系のノリが嫌で、わずか1週間で自主退学したそうで、
その後は、旋盤工、ビル清掃員、ミシンのセールス、印刷会社、キャバレーのビラ配り、アニメのトレース・彩色、サンドイッチマン(胴体の前面と背中の両方に宣伝用の看板を取付けて宣伝する人)など、様々なアルバイトをしつつ、画家を目指し、代々木のデザインスクールに通ったそうです。
ロック・ミュージシャンからフォーク・シンガーに転身
そんな中、ダンスパーティーでギターを弾くマネをするアルバイトをしたことがきっかけで音楽に目覚め、本格的にギターを始めると、やがて、ロックバンドを結成したそうで、
ロック・ミュージシャンを目指し、渋谷のライブ喫茶「青い森」に1ヶ月毎日通っては、出演させてもらったそうです。
ただ、1967年、19歳の時には、自宅が家事で全焼してしまい、自宅で預かっていた、エレキギターやアンプなど、バンドの楽器や機材がすべて燃えてしまったそうで、やむなく、アコースティック・ギター1本で出来るフォークへと転向したのだそうです。
(フォークソングを歌い始めた泉谷さんは、当初は、「フォークの神様」と称された岡林信康さんに憧れたそうですが、泉谷さんが20歳の時、まだ17歳だった忌野清志郎さんがロックバンド「RCサクセション」でデビューすると、その圧倒的な才能と存在に衝撃を受けたそうで、その後は、忌野さんに近づこうとライブに通い詰めたそうです)
セカンドアルバム「春夏秋冬」が大ヒット
そして、1971年11月、23歳の時には、ライヴアルバム「泉谷しげる登場」で「エレックレコード」よりデビューを果たすと、
(泉谷さんは、フォークシンガーとしてデビューする際、「CBSソニー」に移籍した、吉田拓郎さんの後釜として売り出されたそうです)
翌年の1972年4月には、セカンドアルバム「春夏秋冬」がいきなり大ヒットを記録し、泉谷さんは、たちまちその名を全国にとどろかせたのでした。(同年9月25日には、ライブ音源で2枚目のシングルとして発売)
「春夏秋冬」より。
ちなみに、「春夏秋冬」は、泉谷さんが作詞・作曲しているのですが、アレンジ(編曲)し、ヒットさせたのは、プロデューサーの加藤和彦さん(元「ザ・フォーク・クルセダーズ」)だったそうで、
泉谷さんは、
俺たちフォークのシーンは吉田拓郎とかがマイナーレコード会社から出てきた頃で、まだレコーディングのやり方などよくわかっていなかったんだよね。
きわめて日本的な録音というものを「ギョウカイ」だか「ゲイノウカイ」だか何だか知らねぇが、わけのわからないスタジオのオヤジがよぉ、昔ながらのしょうもない習慣を押し付けていた時代だったんだよ。
そんな時にミュージシャン側に立って「こういう風に録るんだ」と、レコーディングのやり方を教えてくれたのが加藤さんなんです
と、語っています。
(加藤さんは、自身のバンド「サディスティク・ミカバンド」などの活動を通して、海外の音楽事情に精通しており、グローバルで洗練された価値観を持っていたそうです)
「泉谷しげるがNHK紅白歌合戦で激怒し途中で帰った理由とは?」に続く