在日韓国人の父親と日本人ながら戸籍のない母親の間に誕生し、韓国籍のまま育った、松坂慶子(まつざか けいこ)さんですが、少女時代、松坂さんを案じたお父さんによって、帰化(日本国籍を取得)したといいます。
「松坂慶子は少女時代まで韓国籍だった!」からの続き
松坂慶子は父親によって帰化(日本国籍を取得)していた
お父さんの英明さんが「清水」姓から「松坂」姓を名乗るようになって、松坂さんも「松坂」姓を名乗りようになり、やがて、松坂さんは本名の「松坂慶子」で女優になり、有名になるのですが、
ある日、英明さんが、某大手新聞社の記者から、「あなたの旧姓も過去もよく知っていますよ」との手紙を受け取ったそうで(「ハッハッハ」と笑い声まで書いてあったそうです)、
英明さんは、自分の戸籍を勝手に調べられていたことにゾッとしつつ、悔しくもあり、何より、娘の将来を案じたことから、帰化を決心したそうで、
知人の力を借りて法務省と交渉すると、その結果、1964年、それまで(幼少期に身売りされたことから)戸籍のなかった、妻・つね子さん(松坂さんのお母さん)の戸籍が回復。
そして、松坂さんをつね子さんの非摘出子(法律上の婚姻関係にない男女の間に生まれた子供のこと)として、つね子さんの戸籍に入れたことで、松坂さんは日本国籍となったのだそうです。
また、その後、英明さんとつね子さんもようやく入籍することができたそうです。
(これらのことは、1993年に松坂さんの両親が出版した「娘・松坂慶子への「遺言」」で公表されています)
父親は壮絶な強制労働を強いられ死物狂いで脱出した島を再訪していた
ちなみに、英明さんは、1993年、70歳の時、(胃を切除する手術を受けていたこともあり)「死ぬ前にもう一度九州に行きたい。すべての出発点である炭鉱のあった高島や筑豊に 母さんを連れて行ってやりたい。」との思いから、
壮絶な強制労働を強いられ、そこから命からがら脱出した九州に、つね子さんと「女性自身」の記者を伴い、訪れたそうですが、高島も筑豊もすっかり変わってしまい、英明さんの記憶の中の風景はすっかりなくなっていたそうです。
母親も父親に同情していた
そこで、英明さんは、せめて、高島炭鉱のあった島から脱出するため、死物狂いで玄界灘を泳いだ経路だけでも辿ろうと、最終日、もう一度、船で玄界灘を渡って島に行き、そこから、九州本土に向かって帰る船の中、へさきに立ち、目前に迫ってくる岸辺をジッと見つめていると、
ついに、岩の形、断崖の高さ、崖の上の木々など、記憶の中の風景とピタリ合う場所が見つかり、生き延びるために泳ぎ着いた岸辺や這い上がった崖が、涙でにじんで見えたそうで、
ここだ! 母さん、ここなんだ! ここに 泳ぎ着いたんだよ!
と、叫ぶと、
それを聞いたつね子さんも、
お父さん、ここなんですね・・・ここなんですね・・・
と、同情し、小さな肩を震わせながら、何度も何度も大きくうなずいたのだそうです。
「松坂慶子が若い頃は「夜の診察室」で一躍脚光を浴びていた!」に続く