パントマイムの修業をするために渡ったフランス・パリで、パントマイムがヨーロッパ人のものであることを痛感し、失意の中、帰国するも、やがて、日本で独自のパントマイムを確立した、中村ゆうじ(なかむら ゆうじ)さんは、その後、芸人として様々な芸を磨く中、大きなテレビの仕事が舞い込みます。

「中村ゆうじは若い頃パントマイムの修業をフランスでしていた!」からの続き

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「ザ・テレビ演芸」でグランプリを獲得

フランスから帰国後、武道とパントマイムを融合させるという独自のパフォーマンスを考案した中村さんは、その後、パントマイムはもちろんのこと、芸人として、様々な技を磨きながら、コメディアンとして活動しているのですが、

1981年には、はらみつおさんらとコントグループ「東京バッテリー工場」を結成すると、演芸番組「ザ・テレビ演芸」の勝ち抜き新人オーディションで、2代目グランドチャンピオンに。

さらに、1983年には、「東京バッテリー工場」を脱退し、ピンで「ザ・テレビ演芸」に出場すると、見事、7代目グランドチャンピオンに輝きます。

(中村さんが「東京バッテリー工場」を脱退したのは、当時のリーダー・はらみつおさんと大ゲンカしたことが原因だったそうですが、はらさんとは「二度と顔をあわせたくない」と、脱退して以来ずっと顔を合わさなかったそうで、2007年、和解せぬまま、はらさんは他界されたそうです)

大竹まことや竹中直人らと「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」を結成

そして、1985年には、「シティボーイズ」大竹まことさん、斉木しげるさん、きたろうさん、放送作家(当時)の宮沢章夫さん、俳優の竹中直人さん、いとうせいこうさんらと、ギャグユニット「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」を結成すると、1980年代のサブカルチャーシーンに大きな影響を与えます。


「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」。(前列左から)きたろうさん、中村さん、斉木しげるさん。(後列左から)竹中直人さん、大竹まことさん、いとうせいこうさん。

「TVチャンピオン(後に「元祖!大食い王決定戦」)」のMCに抜擢

そんな中村さんは、やがて、テレビ番組の司会やリポーターとしても活動するようになるのですが、1992年には、「TVチャンピオン」のオファーが舞い込み、ラウンドMCを担当すると、その後、番組が「元祖!大食い王決定戦」に変更された後は、2016年まで、22年もの間、メインMCを担当したのでした。

(この番組は、あるテーマに沿って、その道の達人たちが腕を競い合うというもので、「大食い選手権」もその企画の1つだったそうですが、素人同士が戦うという、これまでにないコンセプトだったそうです)

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当初は素人が主役であることに戸惑いの連続だった

ちなみに、この仕事では、主役は自分ではなく、あくまで選手(素人)ということで、28歳くらいから芸能界で独り立ちし、すべて自分本位で活動していた中村さんにとっては、真逆の立場となり、戸惑いの連続だったといいます。

それでも、

  • 自分は脇に控え、素人さんの良い面を引き出してあげないといけない
  • 自分が面白い、ではなく、どうしたら、素人さんを面白く映してあげられるか
  • いかに、素人さんの個性を引き出してあげるか

と、考えるようになったそうで、

この番組は、中村さんにとって人生の大きな出会いだったとのことでした。

(とはいえ、相手はあくまで素人のため、しゃべってくれない人もいれば、逆に何を言い出すか分からない人もおり、試合内容の台本があるわけでもなかったことから、臨機応変に対応するしかなく、なかなか大変だったそうです)

「中村ゆうじはギャル曽根の名付け親だった!」に続く


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