映画「乾いた湖」を発表すると大ヒットを記録し、”松竹ヌーベルバーグの騎手”と呼ばれるようになった、篠田正浩(しのだ まさひろ)さんは、その後も次々と作品を発表するのですが、やがて、日本映画産業自体が斜陽化し、「松竹」から自宅待機という名のレイオフが通告されます。しかし、そんな中、篠田さんは独立すると、映画「心中天網島」を大ヒットさせます。

「篠田正浩が若い頃は「乾いた湖」が大ヒットしていた!」からの続き

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「松竹ヌーヴェルヴァーグ」と讃えられる

乾いた湖」が大ヒットしたことから、すぐに「松竹」から第2作目を作るように言われた篠田さんは、1961年、再び、寺山修司さんとコンビを組み、映画「夕陽に赤い俺の顔」を発表すると、

その後も、

1961年「三味線とオートバイ 」
     「わが恋の旅路」※脚本:寺山修司


「わが恋の旅路」より。岩下志麻さんと川津祐介さん。

1962年「涙を、獅子のたて髪に」※ 脚本:寺山修司
     「山の讃歌 燃ゆる若者たち」
     「私たちの結婚」


「涙を、獅子のたて髪に」より。藤木孝さんと加賀まりこさん。

1964年「乾いた花」
     「暗殺」
1965年「美しさと哀しみと」


「美しさと哀しみと」より。八千草薫さん(左)と加賀まりこさん(右)。

と、立て続けに作品を発表。

すると、日本的な様式感覚と独特の美意識に裏打ちされた演出スタイルは、大島渚さん、吉田喜重さんと共に“松竹ヌーヴェルヴァーグ”と讃えられたのですが・・・

(本来、”ヌーヴェルヴァーグ”とは、1950年代後半からフランスで始まった映画運動で、「新しい波」という意味ですが、奔放さや反権威の姿勢が、フランスで勃興しつつあった”ヌーヴェルヴァーグ”と似ていたことから、それらの新しい映画に対して、マスコミによって”松竹ヌーヴェルヴァーグ”と名づけられたそうです)

「松竹」を退社し岩下志麻と共に独立プロダクション「表現社」設立

その後、一般家庭にカラーテレビが普及し、日本映画産業自体が射陽化。

篠田さんは、「松竹」の期待を背負い、1965年には、「異聞猿飛佐助」を制作するのですが、興行は振るわず、やがて、京都撮影所は閉鎖となり、篠田さんにも自宅待機という名のレイオフが通告されます。


異聞猿飛佐助

そんな中、篠田さんは、このまま撮影所に残るわけにはいかないと考え始め、同年、「松竹」を退社。

翌年の1966年には、女優の岩下志麻さんと結婚すると、同年5月には、岩下さんとともに独立プロダクション「表現社」を設立し、1967年には、岩下さんをヒロインに起用した「あかね雲」を発表したのでした。


「あかね雲」より。岩下志麻さん。

映画「心中天網島」が大ヒット

そして、1969年には、再び岩下さんをヒロインに起用し、生と死の狭間に置かれた男女の狂おしいまでの情念とエロティシズムを描いた作品「心中天網島(しんじゅう てんの あみじま)」(ATGと共同制作)を発表すると、

映画館から客離れが進む厳しい状況の中、「第43回キネマ旬報ベストテン」で第1位となる大ヒットを記録するほか、「毎日映画コンクール日本映画大賞」を受賞。これにより、篠田さんは、名監督の地位を不動のものにしたのでした。


「心中天網島」より。中村吉右衛門さんと岩下志麻さん。

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「心中天網島」は「松竹」に却下されていた

ちなみに、篠田さんは、「松竹」時代、「乾いた湖」が完成した後、「心中天網島」を提案したことがあったそうですが、「松竹」は、歌舞伎と映画で観客がはっきり分かれていたことから、「心中天網島(しんじゅう てんの あみじま)」をちゃんと読める映画観客なんてほとんどいないだろうとの理由で却下されていたそうで、

篠田さんも、学生時代からの歌舞伎研究の成果を凝集させたこの「心中天網島」を、別のタイトルで映画にする考えはなかったことから、すっかり諦めていたのだそうです。

「篠田正浩は「スパイ・ゾルゲ」を最後に引退していた!」に続く

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