中学1年の時、舞台「鐘の鳴る丘」のオーディションを受ける友だちに頼まれ、付き添いで同行すると、オーディションでは、台本を読まされ、自分だけ合格して、公演のため全国を巡業したという、毒蝮三太夫(どくまむし さんだゆう)さんですが、高校卒業後は、映画監督になろうと、児童劇団を辞め、日本大学芸術学部映画学科に進学していたといいます。
「毒蝮三太夫のデビューは中1の時の舞台「鐘の鳴る丘」!」からの続き
「青い真珠」で映画デビュー
ひょんなことで、舞台「鐘の鳴る丘」のオーディションに受かり、2ヶ月半ほど、全国あちこちを回ったという毒蝮さんですが、全国巡業から帰ってくると、学校の人気者になっていて、スターのような気分になり、そのうえ、稼いだギャラ3000円を家に入れたことで、両親がとても喜んでくれたことから、俳優を志し、児童劇団に入団したそうで、
その後、1951年、15歳の時には、「青い真珠」で映画デビューし、以降、東宝、大映の青春映画に次々と出演します。
少年時代は落語が好きで、寄席の帰り道に落語を暗記していた
そんな毒蝮さんは、子供の頃から落語が好きで、よく寄席を観に行っていたそうですが、その帰り道、都電なら15分で帰れるところを、その日観た落語を三つくらいしゃべりながら、45分かけて歩いて帰り、家に到着する頃には、すっかり暗記していたそうで、
中学校の卒業式では、卒業生代表として、鈴本演芸場で覚えた落語を全校生徒の前で披露したそうです。
(とはいえ、落語家になろうと思ったことは一度もないそうです)
高校卒業後は映画監督を目指して日本大学芸術学部映画学科に入学していた
そして、高校を卒業する頃には、映画監督になりたいと思うようになっていたそうで、児童劇団は辞め、日本大学芸術学部映画学科に入学。
大学では演出を勉強し、「黒澤明になろう、小津安二郎になろう」と思っていたそうですが・・・
助監督の試験を受けたところ、すべて不合格となってしまい、そのまま俳優を続けることにしたそうで、その後、大学在学中、影万里江さん、増山江威子さん、稲吉靖司さん、北浜晴子さん、豊原ミツ子さんら同世代の仲間たちと「劇団山王」を旗揚げ。石原慎太郎さんの「処刑の部屋」などを演じたそうです。
(その後、映画産業が下火になったそうで、今となっては、助監督の試験に落ちて良かったと思っているそうです)
「坊っちゃん」でテレビドラマデビューするも当初はチンピラ役ばかりだった
そんな中、時代は、テレビ黎明期だったそうで、1957年、21歳の時には、「坊っちゃん」でテレビドラマデビューも果たすと、以降、テレビドラマにも出演するようになったそうですが、
当初は、脇役のチンピラ役ばかりだったそうです。(週に1度は警察に捕まっていたそうです)
ちなみに、ようやくセリフがもらえた時は、嬉しくて嬉しくて、お母さんにそのことを報告すると、お母さんは、テレビのある隣の家に近所の人を集め、お茶菓子を食べながら、みんなで観ていたそうですが、本番では、毒蝮さんのセリフは無くなったそうで、お母さんには、「恥をかかされた」と怒られたそうです(笑)
(毒蝮さんの家には、しばらくテレビがなく、テレビを観る時は、隣の家で観させてもらっていたそうで、ようやくテレビが来たのは、1959年、当時の皇太子殿下と美智子様のご成婚の頃だったそうです)
当初テレビはライトが熱く、誰もが出演したがらなかった
とはいえ、当初、テレビドラマは、カメラが大きく、ライトが熱かったことから、かつらをかぶっていても、ダラダラと汗が流れ出てきたそうで、
こんなんだったらテレビをやったら死んじゃうな
と、みんなと話し、誰もがテレビに出ることを嫌がっていたのだそうです。
(毒蝮さんは、実験テレビの頃からテレビに出演していたそうです)
「毒蝮三太夫は若い頃「ウルトラマン」のアラシ隊員役で大ブレイク!」に続く