お母さんと茨城県東茨城郡圷(あくつ)村に疎開し、「東京大空襲」を免れたという、愛川欽也(あいかわ きんや)さんは、その後、疎開先で終戦を迎えたそうですが、東京・巣鴨の家は燃えてなくなっており、今度は、秋田県のお母さんの遠い遠い親戚の家に居候することになったそうです。
「愛川欽也は少年時代「東京大空襲」を疎開で免れていた!」からの続き
終戦を迎えるも東京・巣鴨の家は焼け、秋田の親戚の家に居候させてもらうことに
愛川さんは、1945年8月15日、疎開先の茨城県東茨城郡圷(あくつ)村の学校で、全校生徒が校庭に集められ、玉音放送(天皇の肉声による放送)を聞いて、戦争が終わったことを知ったそうで、これでお母さんと一緒に東京に帰れると喜び、駆け足で家に向かったそうですが、
東京・巣鴨の家は燃えてなくなっていたことから、東京へ帰ることはできず、今度は、秋田県湯沢というところの、お母さんの遠い遠い親戚の家に居候させてもらうことになったそうです。
(それまで愛川さん親子がお世話になっていた茅葺きの家は、早く出ていってほしいおばさんと、もう少し家においてあげようというおじさんが話し合う声が、愛川さんとお母さんが寝ている部屋まで漏れ聞こえていたそうで、もともと、居づらかったこともあり、お母さんが秋田へ移ることを決めたのだそうです。)
秋田行きの列車はぎゅうぎゅう詰めでトイレの中で立っていた
こうして、お母さんと愛川さんは、荷物を先に送り、上野から奥羽本線の秋田行きの列車に乗ったそうですが、列車の中は、詰め込まれた人で満員だったそうで、二人は座る席もなくトイレの中に4~5人の人と一緒にいることを余儀なくされたそうです。
(上野駅で、汽車を待つ間、愛川さんが見た東京は果てしなく続く焼け野原だったそうです)
また、汽車が上野を出てしばらくすると、老婆が泣きそうな顔でトレイを使わせてほしいと言ってきたことから、トイレの中に押し込まれていた愛川さんたちは、一旦、ぎゅうぎゅう詰めの廊下に出て待ったそうで、
ほどなくして、トイレから出てきた老婆が、何度もお礼を言いながら、大勢の中を潜るように戻っていくと、再び、愛川さんたちは、トイレの中にぎゅうぎゅう詰めで入ったそうです。
東北弁が理解できず自分の将来に不安を抱いていた
ただ、やがて、福島を過ぎると、汽車はかなり空いてきたそうで、ある駅に到着した際には、人がたくさん降りたことから、愛川さんとお母さんはやっと席に座ることができたそうですが、
その時には、東京を出発してから6時間が経っており、ずっと立ちっぱなしだったことから、足も腰も身体全体の感覚がなく、椅子に座ると、ホッとため息が出たそうです。
その後、東北へ向かって走り続ける汽車は、駅に止まるたびに客が入れ替わり、それと同時に、言葉も変わっていったそうで、岩手を過ぎる頃になると、乗客の話し声は、日本語とは思えない、まるで意味の分からない言葉になっていたそうですが、
愛川さんは、その意味の分からない言葉が、これからの自分の行末を暗示しているかのようで不安になったといいます。