若い頃から、社会の歪みに鋭くメスを入れるような作品を次々と発表し、“松竹ヌーベルバーグの旗手”と呼ばれるなど注目を集めると、その後は、「愛のコリーダ」や「戦場のメリークリスマス」で国際的な評価も得て、名監督の地位を不動のものにした、大島渚(おおしま なぎさ)さんですが、プライベートはどのようなものだったのでしょう。今回は、そんな大島さんのプライベートをご紹介します。
「大島渚と野坂昭如の殴り合いは遊び心からだった?」からの続き
妻・小山明子との馴れ初めは?
大島さんは、1960年、女優の小山明子さんと結婚しているのですが、小山さんと知り合ったのは、まだ、松竹の助監督だった1955年、23歳の時で、映画「新婚白書」の撮影期間中の休みの日に、ボートに一緒に乗ったことがきっかけで交際が始まったそうです。
(小山さんは、当時デビューしたばかりの20歳の新人で、この「新婚白書」が出演映画2作目だったそうです)
ちなみに、大島さんと小山さんは、結婚するまでの5年間で、360通もの手紙(ラブレター)のやり取りをして愛を深めたそうですが、
小山さんは、その中でも、
世界で通用する監督になって君をカンヌに連れて行く
と、大島さんの決意の言葉が書かれた手紙に、心を打たれたそうです。
妻・小山明子が逆プロポーズ
ただ、お互い多忙だったせいか、なかなか結婚の話には至らず、しばらく会わなかった時期もあったそうですが、
1959年、小山さんが、人づてに、大島さんが映画監督になると聞き、
大島さんに会いに行き、その場で、
あなたのお嫁さんになることにしたわ
と、逆プロポーズしたそうで、
こうして、1960年、大島さんが、「愛と希望の街」で映画監督デビューを果たしたことをきっかけに、二人は結婚し、学士会館で(会費1000円の)結婚式を挙げたのだそうです。
結婚当初は妻・小山明子が生活を支えていた
ちなみに、奔放さや反権威の姿勢から”松竹ヌーヴェルヴァーグの旗手”と言われた大島さんも、小山さんによると、家庭では、とても穏やかで、優しい旦那さんだったそうですが、
結婚した翌年1961年、大島さんが、自身が安保闘争を描いた映画「日本の夜と霧」が公開4日で松竹により無断で上映を打ち切られたことに怒り、松竹を退社すると、小山さんも、大島さんと共に松竹を退社し、総勢6名で、映画製作会社「創造社」を設立しており、小山さんが、大黒柱となって生活を支え、さらには、映画製作の費用も捻出したそうです。
(結婚した当時は、大島さんの月収1万4000円に対し、小山さんの映画1本のギャラは50万円だったそうです。また、大島さんは意に沿わない仕事はしないという強い信念を持っていたそうです)
ちなみに、小山さんは、
私の夢は、結婚で女優を辞めて家庭に入ることでした。小さな家で白いエプロンをかけて夕食の支度をしながら夫の帰りを待つ・・・というイメージ。
ところが、大島が松竹を退職して独立する時期と結婚の時期が重なったため、「夫が無職」という状態でのスタートでしたから、それどころではなくなりました(笑)
と、語っています。
「大島渚は家庭では穏やかで一度も声を荒げたことがなかった!」に続く
新婚時代の小山明子さんと大島さん。(1961年6月)