2歳8ヶ月で子役デビューして以来、主に喜劇を中心に活動し、その自然体の演技で”天才子役”と呼ばれていた、中村メイコ(なかむら めいこ)さんは、1955年、20歳の時には、歌手デビューも果たすと、同年、2枚目のシングル「田舎のバス」がヒットします。
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2枚目のシングル「田舎のバス」がヒット
中村さんは、主に喜劇を中心に女優として活動するかたわら、1955年1月(中村さん20歳)、ファーストシングル「雑木林に月が出た」で歌手デビューすると、同年2月にリリースした2枚目のシングル「田舎のバス」がヒットしているのですが、
実は、この「田舎のバス」、名古屋でのある出来事がヒントになって誕生した曲だったといいます。
「田舎のバス」
「田舎のバス」は名古屋のエレベーターガールがヒントになっていた
それは、中村さんが、名古屋に1ヶ月ほど公演に行った時のこと、劇場がデパートの最上階にあったことから、一般の人が使うエレベーターに乗って、楽屋に向かっていたところ、
エレベーターガールが、
次は三階にまいります。 春の婦人服が陳列してございます
と、標準語で案内したそうですが、
たまたま、そのエレベーターには、エレベーターガールの友達も同乗していたことから、その後、
エレベーターガール:あんた、 何ぎゃい(階)行くの?
友達:4ぎゃいだがね
とのやりとりをし、
その後、また、すまして、
次は4階にまいります
と、標準語で案内をしたのが、面白く、
中村さんは、何度も行ったり来たりしてエレベーターに乗ったことがあったのだそうです。
(その結果、名古屋弁をマスターしたのだそうです(笑))
「田舎のバス」のヒットは予想外だった
そんな出来事を、東京に戻り、作詞家の三木鶏郎さんに話したところ、三木さんは、「それ、おもしろいね。 曲にしよう」と言ったそうで、さっそく制作に取り掛かかると、いろいろ話した結果、設定をエレベーターからバスに変えようということになり、
(地方へ行った時の列車の中で、中村さんがバスガイドのモノマネをしたのを、三木さんが覚えていたそうです)
最初、「皆様、毎度御乗車下さいまして、ありがとうございます」と標準語でしゃべっていたバスガイドが、途中から、「アンレマしょうがねー。牛だナー」と、(名古屋弁はわかりづらいため)東北弁っぽい方言でしゃべるようにし、さらには、田舎のバスに車掌さんの知り合いのおばあちゃんが乗って来たという設定にして、セリフは全部アドリブにして、「田舎のバス」が完成したそうで、
1954年、ラジオ放送「みんなでやろう 冗談音楽」で初めて放送されると、予想以上の大反響となったため、レコード化してリリースしたところ、思わぬヒットとなったのだそうです。
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