1936年、2歳8ヶ月の時、映画「江戸っ子健ちゃん」のフクちゃん役で脚光を浴びると、以降、喜劇を中心に、数多くの映画やテレビドラマに出演するほか、歌手としても活動し、1955年、20歳の時には、2枚目のシングル「田舎のバス」がヒットした、中村メイコ(なかむら めいこ)さんですが、そんな中、将来、夫となる作曲家の神津善行さんと知り合ったといいます。
「中村メイコのデビューからの出演ドラマ映画と著書を画像で!」からの続き
夫・神津善行との馴れ初め
中村さんが神津善行さんと知り合ったのは、作詞家の三木鶏郎さんのスタジオで、神津さんが編曲した歌を歌うことになった時が初めてだったそうですが、
当時、神津さんは、国立音楽大学に通いながら、三木さんのスタジオで作曲や編曲のアルバイトをしていたのだそうです。(中村さん17歳、神津さん19歳)
(中村さんは、1952年に、三木鶏郎さん演出・音楽のラジオドラマ「緑の天使」に出演したことがきっかけで、三木鶏郎さんと知り合うと、以来、三木さんにかわいがってもらい、三木さんのスタジオでは、アイドルのような存在だったそうです)
神津善行に「した(下)がどのくらい出せるか」と聞かれ「した(舌)」を突き出していた
さておき、その曲というのが、ラジオ番組「日曜娯楽版」のための「オセンチ娘」という曲だったそうで、中村さんは、譜面が読めなかったため、神津さんにピアノでメロディを弾いてもらったそうですが、
いざ歌を歌うことになった時、神津さんに、
した、どのくらい出ますか
と、聞かれたため、
中村さんは、「舌、ああ」と思いつつ、舌を出したそうです。
ただ、背中を向けて座っていた神津さんからは何の反応もなく、しばらくしてから、神津さんに、また、
したはどのくらい出ますか
と、振り向きもせず、さっきよりも大きな声で言われたそうで、
中村さんは、もっと舌を出せ、ということなのだと思い、思いっ切り舌を突き出したそうです。
神津善行との最初の出会いは最悪だった
それでも、神津さんは一言も何も言わなかったので、中村さんは、「何も言わないなあ」と思っていたそうですが、しばらくして、ついに、神津さんが振り向くと、中村さんが思い切り舌を出して立っているのを見てびっくりしたそうです。
というのも、中村さんは、「下」を「舌」と勘違いして、言われるがままに、「舌」を出していたからなのですが、
神津さんはというと、
いや、あの、音域で〝 下〟 のことですから
と、呆れ顔で言ったそうで、
ちょっとイラッときた中村さんは、
だったら、『下はどこから、上はどこまで出ますか?』と言ってくれなければわかりません
と、言い返し、神津さんとの出会いは最悪だったそうです(笑)
(神津さんの方も、中村さんの第一印象は「こんな何も知らない人に初めて会った!」だったそうです)
普通の学生だった神津善行と永六輔が新鮮だった
とはいえ、中村さんは、神津さんと、もう一人、三木さんのスタジオでアルバイトをしていた永六輔さんの二人と知り合ったことが、とても嬉しかったといいます。
(当時、早稲田大学の学生だった永六輔さんも、三木鶏郎さんのもとで、放送作家の弟子としてアルバイトをしていたそうです)
というのも、中村さんは、仕事上では、佐田啓二さんや鶴田浩二さんなどの2枚目俳優の相手役を務めることが多く、かっこいい男性は周りにいっぱいいたそうですが、どうしても役者として見てしまうため、恋愛感情がわかず、
むしろ、
またNG出して嫌だな
セリフが下手だな
早く終わりたいな
などと感じることが多かったそうで、
普通の大学生である神津さんと永さんが新鮮に感じ、すぐに、ナンセンス作家でお父さんの中村正常さんに、
ボーイフレンドができた
お父さん:名前を教えろ
中村さん:えーと、永君と
お父さん:A君?頭文字はいかん!本名で言え
中村さん:永君は『永』が名字。永遠の『永』なの。もう一人は、神津君
と、報告しつつ、
ああ、こういう人たちが普通の大学生なんだなぁ
と、とても新鮮な気持ちになったのだそうです。
(中村さんは、最初から、永さんよりも、神津さんのことを「ちょっと いい男だな」と、ほのかに好意を持っていたそうです)
若い頃の中村さんと神津善行さん。