1957年、24歳の時、三木鶏郎さんに誘われて、ディズニー映画「ダンボ」に携わると、その後も、ディズニー映画「わんわん物語」に携わり、ヒットさせた、永六輔(えい ろくすけ)さんは、1959年には、新人歌手の水原弘さんのデビュー曲で、作曲家の中村八大さんとコンビを組んだ「黒い花びら」がミリオンセラーの大ヒットとなります。

「永六輔は三木鶏郎から葬儀委員長も頼まれていた!」からの続き

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水原弘に提供した「黒い花びら」が「日本レコード大賞」を受賞

1957年、三木鶏郎さんと共にディズニー映画を手掛け、次々とヒットさせた永さんは、その後は、舞台の仕事を精力的にこなしつつ、労音(勤労者音楽協議会)の仕事も手掛けるようになったそうですが、

1959年7月には、新人歌手だった水原弘さんに提供(作詞)した「黒い花びら」が100万枚を売り上げる大ヒットを記録し、「第1回日本レコード大賞」を受賞します。


「第1回日本レコード大賞」授賞式より。(左から)中村八大さん、水原弘さん、永さん。

(「黒い花びら」は東宝映画「青春を賭けろ」の挿入歌として作られたそうです)

作曲家の中村八大に街でいきなり作詞を依頼されていた

ところで、放送作家だった永さんが、なぜ、作詞を手掛けたのでしょう。

実は、永さんは、1959年の夏、26歳の時、有楽町の日劇(日本劇場)の前で、偶然、作曲家の中村八大さん(29歳)と出会うと、

(それまでも、中村さんを放送局で見かけたことは何度かあったものの、言葉を交わしたことはなかったそうです)

いきなり、中村さんから、

君、作詞やってくれる?

と、言われたそうで、

永さんは、無理だと思い、

作詞?自信ありません

と、断ったそうですが、

(実は、永さんは、三木鶏郎さんに作詞の手伝いもさせられていたそうですが、いつも直されてばかりで、どんどん直されていくうちに、最終的には全く違う歌詞になっていたことから、作詞は素人だと思っていたそうです)

中村さんには、

できるよ。 大丈夫!

と、太鼓判を押してもらったそうで、

永さんは、その足で、中村さんのアパートに一緒に行くと、夜の8時から翌朝の6時まで、二人でそれぞれ好き勝手に、中村さんは曲を書き、永さんは詩を書き、その曲と詞を合わせて10曲作ったそうで、そのうちの1曲が「黒い花びら」だったそうです。

(永さんは、初めて、早稲田大学の大隈講堂の壇上でピアノのソロを弾く中村さんの姿を見た時に、「ワルソー・コンチェルト」というピアノ協奏曲の華麗なタッチに圧倒され、以来、中村さんは憧れの人だったそうで、そんな中村さんに声をかけられたことが、正直、嬉しかったそうです)

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中村八大が永六輔に作詞を依頼したのは偶然だった

ちなみに、中村さんは、前年の1958年、リサイタルの失敗や多額の借金などで精神的に追い詰められ、その苦しみから逃れようと、ヒロポン(当時、薬局で普通に手に入れることができた覚せい剤)に手を出してしまい、中毒となってしまっていたのですが、やはり、自分には音楽しかないと、ヒロポンを断ち切り、再起を賭けて、仕事を頼もうと、ある先輩を訪ねた際、

先輩からは、

(低予算のロカビリー)映画に、ロカビリーを10曲入れるオーディションがあるから、それを書いてみないか

と、言われるも、締切りが翌日までということで、困り果てていたそうで、

その帰り道に、有楽町を歩いていると、日劇の前で、ちょうど、この劇場で開催されていたウエスタン・カーニバルを観に行った帰りの永さんとばったり出会ったそうで、

永さんは、中村さんからこの話を聞き、

人の出会いというのは、後から考えると不思議です。

と、語っています。

(中村さんは、以前、ジャズバンドでピアニストとして活躍していたそうですが、ジャズブームは去り、何でもいいから仕事を探さなければならない状況だったそうです)

「永六輔が作詞した「黒い花びら」は「ネリカンブルース」のせいでお蔵入りになっていた!」に続く

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