東京大空襲に遭うも、命からがら生き延びたという、高木ブー(たかぎ ぶー)さんは、東京・巣鴨の家は燃えてなくなったことから、母方の実家がある千葉県・柏に疎開し、終戦後もしばらくその地で過ごしていたそうですが、そんな中、15歳の誕生日に、お兄さんからウクレレをプレゼントされたといいます。
「高木ブーは少年時代に東京大空襲を経験していた!」からの続き
千葉県・柏に疎開していた
東京大空襲の中、命からがら巣鴨から小石川植物園逃げ切った高木さんは、一夜明けると、一面焼け野原で丸焦げになった死体がたくさん横たわった道なき道を進み、また、巣鴨の家を目指して、お父さんとお母さんと一緒に歩いたそうですが、
ようやく自分たちの家のあった場所にたどり着くも、家は燃えてなくなっていたそうで、
(住んでいた社宅の敷地にあった池と松の木が目印になって、かろうじて自分の家の場所が分かったそうです)
そこにバラック小屋を建ててしばらく住んだそうですが、雨が降ると、生活することが困難になるほど、家の中が水浸しになったそうで、その後、空襲で焼けただれた東京を離れ、お母さんの実家があった、千葉県東葛飾郡柏町篠籠田の地(現・千葉県柏市明原2丁目)に疎開したそうです。
終戦後も千葉県・柏で暮らしていた
すると、ほどなくして、1945年8月15日に終戦を迎えたそうですが(中学1年生)、東京・巣鴨の家は燃えてなくなっていたことから、東京へ帰ることはできず、中学校が再開すると、千葉の柏から、東京の日暮里まで汽車で通学したそうで、
高木さんは、この頃のことを、
当時は僕も軍国少年だったから、夢は戦闘機の飛行機乗りになることだったんだよね。柏に飛行場があって、行き来する軍用機を憧れの目で見てた。
海軍の予備学生になれば、いきなり幹部になれるらしい。そしたら楽だなって思ってた。その頃から、楽することばっかり考えてたのかな。戦争に負けたのと同時に、その夢も消えちゃったけどね。
と、語っています。
(そこで、29歳まで過ごしたそうです)
誕生日に兄からウクレレをプレゼントしてもらう
そんな中、高木さんは、15歳の誕生日に(中学を卒業する直前)、8歳年上のお兄さんから、ウクレレをプレゼントしてもらったそうで、最初はコードすら分からなかったそうですが、(当時はハワイアン音楽の楽譜などがなかったため)レコードを聴きながら独学したそうで、
高校1年生の夏には、「ウクレレを持ってるから」との理由でハワイアンバンドに誘われ、千葉県・柏の夏祭りのステージで、ハワイアンバンドの一員として演奏すると、(つたない演奏だったものの)このことがきっかけとなり、楽器を演奏する楽しさに目覚め、すっかり、ウクレレに夢中になったのだそうです。
兄がウクレレをプレゼントしてくれたのは気まぐれだった?
ちなみに、お兄さんは、その頃、ハワイアンに熱中しており、日系2世のハワイアン歌手である灰田兄弟の追っかけをするほどのファンだったそうですが、
高木さんがウクレレを欲しいと言ったことは一度もなく、そもそも、それまで楽器をやったことがなかった自分に、なぜウクレレをくれたのか疑問に思い、お兄さんに尋ねたことがあったそうですが、お兄さんは、自分でも分からないと笑っていたそうで、
高木さんは、
兄貴の気まぐれのおかげで、僕は一生のパートナーと出会うことができました。
と、語っています。