1950年代半ば頃には、日本でも、エルビス・プレスリーの影響で、ロックンロールが注目を集めるようになるほか、ダーク・ダックスやデューク・エイセスのジャズコーラスなど、新しい音楽がブームとなったことから、高木ブー(たかぎ ぶー)さんも、新しいことに挑戦しようと、バンドを「高木智之とハロナ・リズム・コーラス」とリニューアルし、その後も試行錯誤していたそうですが、やがて、人気歌手のジェリー藤尾さんに声をかけられたといいます。
「高木ブーの若い頃は米軍キャンプで演奏活動をしていた!」からの続き
「高木智之とハロナ・リズム・コーラス」⇒「ニュー・フレッシュマン」
ロックンロールやジャズコーラスが日本でブームになると、自分たちも新しいことに挑戦しようと、バンド「高木智之とハロナ・セレナ―ダス」を、同じメンバーのまま、「高木智之とハロナ・リズム・コーラス」にリニューアルしたという高木さんですが、
しばらくすると、また、何か物足りなさを感じるようになったそうで、ちょうどその頃、アメリカで「フォー・フレッシュマン」というコーラスグループが人気を博していたことから、今度はこれをやってみようと、メンバーを一部入れ替えて、「ニュー・フレッシュマン」を結成したそうですが・・・
やはり、しっくりこず、どうしたらいいのかと悩んだそうです。
ジェリー藤尾にスカウトされて「ジェリー藤尾とパップ・コーンズ」に参加
そんな中、1962年、29歳の時、ジェリー藤尾さんに、「ウチのバンドでやらない?」と、声をかけられたそうで、高木さんは、すぐにこの誘いを受け、
デキシーランド・ジャズやスイング・ジャズなどを演奏していたジェリーさんのバンド「ジェリー藤尾とパップ・コーンズ」に参加すると、バンジョーを担当し、渋谷や新宿、池袋のジャズ喫茶を中心に演奏活動をしたそうです。
(ジェリーさんは、1962年6月に発売したシングル「遠くへ行きたい」が大ヒットし、この時、すでに、売れっ子だったそうで、当時の人気歌手は、自分専用のバンドを持つことがステイタスだったことから、ジェリーさんも、自分のバンドを作ろうと、別バンドで活動していた高木さんと何人かのメンバーに声をかけてくれたそうですが、なぜ、自分たちを選んでくれたのかは分からないそうです)
ジェリー藤尾の控えシンガーとして仲本興喜(後の仲本工事)が加入
ただ、かなりの売れっ子だったジェリーさんは、忙しく、ジャズ喫茶に出演できないことがあったため、控えのシンガーを用意しておこうということになり、オーディションをしたそうで、
この時、まだ、学習院大学の学生だった仲本興喜(後の仲本工事)さんがメンバーに加ったのだそうです。
ちなみに、仲本さんは、歌が上手だったうえ、当時はまだメガネをかけておらず、ハンサムな好青年だったことから、ジェリーさんの代役には申し分なかったそうです。
(仲本さんは、「ジェリー藤尾とパップ・コーンズ」に加入する前は、「永田五郎とクレイジー・ウエスト」というバンドにいたそうですが、そこには、後の、「ザ・ドリフターズ」のメンバーとして、ともに活動することになる加藤茶(当時は加藤英文)さんもいたほか、時期は違うものの、荒井注さんも在籍していたことがあったそうです)
「高木ブーが若い頃は仲本工事と「ロジェ滋野とシャドーズ」を結成していた!」に続く
「ジェリー藤尾とパップ・コーンズ」(前列左から、仲本工事さん、ジェリー藤尾さん。ジェリーさんの右後ろが高木さん)