歌手のジェリー藤尾さんにスカウトされて「ジェリー藤尾とパップ・コーンズ」に加入し、活動の幅を広げた後には、エレキブームに乗って、エレキバンド「ジェリー藤尾とロジェ滋野とシャドーズ」を新しく立ち上げた、高木ブー(たかぎ ぶー)さんは、ジャズ喫茶で演奏中、「碇矢長一とザ・ドリフターズ」のリーダーのいかりや長介さんに声をかけられたといいます。
「高木ブーが若い頃は仲本工事と「ロジェ滋野とシャドーズ」を結成していた!」からの続き
いかりや長介にスカウトされて「碇矢長一とザ・ドリフターズ」に移籍
「ジェリー藤尾とパップ・コーンズ」を脱退し、新たに結成したエレキバンド「ロジェ滋野とシャドーズ」で活動していた高木さんですが、
1964年8月の終わり頃、横浜のジャズ喫茶「ピーナッツ」での深夜の演奏が終わった後、「碇矢長一とザ・ドリフターズ」のリーダーだった、いかりや長介さんに、「ちょっといいかな」と声をかけられ、いかりやさんと桜井輝夫さん(当時はオーナー的存在)に「東京まで送るよ」と言われて、桜井さんの車に乗せられると、その車の中でスカウトされ、「碇矢長一とザ・ドリフターズ」に移籍したそうです。
(当時のバンドの世界では引き抜きが当たり前だったため、高木さんは、2人に声をかけられた時、なんとなく、何の話か察しがついていたそうです)
いかりや長介にギャラの交渉をするも・・・
ちなみに、高木さんは、前年に子供が産まれていたため、移籍するのであれば、より良い条件で移りたいと考えていたことから、
遠回しに、ギャラのアップを要求しようと、いかりやさんに、
娘のミルク代がかかって困る
と、こぼしてみたそうですが・・・
いかりやさんは、全く察してくれず、その後、いかりやさんとは、延々とミルク談義をする羽目になったそうです(笑)
最終的には交渉が成立し「碇矢長一とザ・ドリフターズ」に加入
それでも、もうちょっとで家に着くという頃になると、いかりやさんは、
わかった、ミルク代としてゲーセン(5000円)アップでどうだい?
と、言ってくれたそうで、
無事、交渉は成立し、高木さんは、「碇矢長一とザ・ドリフターズ」に加入することになったのだそうです。
(高木さんは、「碇矢長一とザ・ドリフターズ」とは、ジャズ喫茶で何度か共演するなど、面識があったそうで、「面白そうなことをやっているな」とは思っていたそうですが、いかりやさんからスカウトされるまでは、メンバーと話したこともなく、また、入りたいと思ったこともなかったそうです)
ちなみに、高木さんは、その経緯を、
ドリフターズにメンバーとして加入したのは1963年9月16日です。ギター担当の欠員ができたところ、当時の3代目リーダー・いかりや長介さんが声を掛けてくれました。(↑実際は1964年9月16日)
より給料のいいところ、条件のいいところへと、バンドを移籍するのは珍しくない話でした。まだ生まれて間もない娘がいたので、長さんから「お宅は母乳ですか?」と聞かれ、
「うちはミルクで、結構ミルク代がかかるんです」と、給料のベースアップを暗に希望する私の真意が通じてか、当時5000円アップでの移籍となりました。当時としてはかなりの高級取りです。
と、語っています。
「高木ブーがいかりや長介にスカウトされた理由は「見た目」だった!」に続く