「石井均一座」「劇団ムーラン」と立て続けに、所属していた劇団が解散し、途方に暮れていたところ、劇作家で俳優の小崎政房さんに紹介され、「宝塚新芸座」に入団するも、夜の公演がないことを物足りなく感じ、再び小崎さんに相談し、「吉本興業」を紹介されたという、財津一郎(ざいつ いちろう)さんですが、当初は、慣れない大阪で大変な苦労をしたといいます。

「財津一郎は昔「吉本興業」に入っていた!」からの続き

Sponsored Link

吉本新喜劇に出演するも芸に厳しい大阪人を前に笑いをとることができなかった

1962年、28歳の時、「吉本興業」に入団した財津さんは、大阪の「うめだ花月」で上演される吉本新喜劇に、脇役で出演するようになったそうですが、

当初は、「何言うてまんねん」「何してんねん」と、切れ目なくしゃべり続けるマシンガントークについていくことができなかったほか、毎日、精一杯に舞台をこなすも、大阪の人たちは芸に対してとても厳しく、

東京から流れ着いて来たのだろうという厳しい視線をいつも感じていたそうで、到底、笑いをとることなどできなかったそうです。

大阪の文化を理解するため映画「夫婦善哉」を観ることを思いつく

また、財津さんは、「おおきに」などと調子良く言ってくれる大阪の人たちが、実際には、腹の中で何を考えているのか分からず、なかなか打ち解けることができなかったそうで、

そんな現状を打開するため、大阪の文化を一から学ぼうと思い、まずは、大阪を舞台にした映画「夫婦善哉」を観ることを思いついたそうです。

(「夫婦善哉」は、大阪生まれの作家・織田作之助さんの同名小説を原作とする1955年に公開された映画で、昭和初期の大阪を舞台に、優柔不断な化粧問屋の長男(森繁久彌さん)と人気芸者(淡路千景さん)が駆け落ちの末、夫婦となって絆を深めていく様子が、なにわ情緒豊かにユーモラスに描かれており、ラストシーンでの、雪が降る中、肩を寄せ合いながら歩く2人が、「頼りにしてまっせ。おばはん」「おおきに」と言い合う言葉が流行語にもなったそうです)

大阪の人々と触れ合うよう努力していた

そして、映画「夫婦善哉」の中に散りばめられていた、水掛不動尊、甘味処、ライスカレー屋など数多くの庶民の生活の場で、実際に大阪の精神を肌で感じようと、

水掛不動尊にお線香を上げに行ったり、食堂のおばちゃんと話し込んでみたりと、歩き回っては、人々と触れ合ったのだそうです。

Sponsored Link

自分をさらけ出すことで大阪の人々と仲良くなれた

すると、そのうち、大阪の人は、本音で話せば本音で返してくれるということが分かってきたそうで、

(つまり、財津さんいわく、大阪の人は「かっこつけは好かん」のだそうです)

自分をさらけ出していくうち、徐々に、仲間もできてきたのだそうです。

「財津一郎のギャグ「やめてチョウダイ」は心の叫びだった!」に続く

Sponsored Link