「大映」の看板女優でありながら、一度だけ、「松竹」の小津安二郎監督作品に出演したという、山本富士子(やまもと ふじこ)さんですが、その作品(「彼岸花」)の撮影で過ごした小津監督との時間は、忘れられない思い出となっているそうです。

「山本富士子は昔小津安二郎監督から余計な動きをしないよう指導されていた!」からの続き

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「彼岸花」撮影中は私語禁止も小津安二郎監督の優しさが溢れていた

彼岸花」撮影時、スタジオでは、私語は一切禁止だったそうで、ピーンと一本の糸が張ったような緊張感に包まれていたそうですが、怖いというのではなく、小津監督の優しさや温かさがスタジオには溢れていたそうで、

山本さんは、小津監督との思い出について、

たくさんありますね。昭和30年代は、日本映画の全盛期で次から次へと作品に追われ、私も一年に10本以上の作品に出演するという、超過酷ともいえるハードスケジュールで、いつも、夜間撮影は当たり前、徹夜も当たり前ということでやってきましたが、

『彼岸花』の時は夕方5時になると、小津先生がスタジオから出られて「これからミルクの時間だよ」と嬉しそうなお顔でおっしゃるんです。そして、夕方5時に撮影が終了するんです。

私は、本当にミルクをお飲みになるんだと思っていましたら、スタッフの方が「ミルクはお酒のことです」と教えて下さったんですね。先生は本当にお酒がお好きだったようです。

でも、その有難いミルクの時間のおかげで、徹夜も夜間撮影もないという、当時では考えられなかった、嬉しい、幸せなミルクの時間を経験することが出来ました。

と、語っています。

「お別れ会」で歌い踊る小津安二郎監督に感激

さらに、撮影が終了した夜には、「お別れ会」が 原作者の里見弴さんの鎌倉の自宅で開かれ、小津監督は、ほろ酔いの上機嫌で、白いシーツを身体に巻き付けて「カチューシャの唄」を歌い、踊っていたそうですが、

山本さんには、それが、最高に楽しく、感激した出来事だったそうで、その夜、次の撮影のため、そのまま夜行列車で京都に向かったそうですが、感激と興奮で一睡もできなかったそうです。

小津安二郎監督とお酒を酌み交わせなかったことを後悔

ちなみに、山本さんは、一つ後悔していることがあるそうで、それは、山本さんは、当時、お酒が飲めることを伏せており、この夜も、オレンジジュースを飲んでいたことから、小津監督とお酒を酌み交わすという幸せを逃していたそうで、

もし、今だったら、一緒にお酒をたくさん飲み、小津監督と「カチューシャの唄」を歌い踊っていたのに、とのことでした。

小津安二郎監督からは「彼岸花」の最初のシーンで着た着物をプレゼントされていた

また、撮影がすべて終了すると、小津監督は、「彼岸花」の最初のシーンで着た、浦野理一さんという着物作家の着物を、記念にとプレゼントしてくれたそうで、

山本さんは、

その時の嬉しかったこと、感激したことは、今も忘れることができません。今も、私の大切な宝物でございます。

と、語っています。

(撮影に入る前には、どんな作品でも、監督、俳優、衣裳さん達と衣裳を選ぶ「衣裳調べ」というものがあるそうですが、「彼岸花」の撮影の時には、小津監督が事前に山本さんの衣裳をすべて選んでくれていたそうで、このプレゼントされた着物も、小津監督が選んでくれたものだったそうです)

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「彼岸花」の後は小津安二郎監督と会うことはなかった

その後、山本さんは、数々の作品に出演し、多忙な日々を送ったそうで、再び、小津監督に会うことは叶わなかったそうですが、

山本さんは、

小津先生とは『彼岸花』一本でしたが、むしろ亡くなられてから各地での『彼岸花』上映会や講演会や、記念碑の建立の折、先生を偲ぶ会など、また、義妹に当たられる小津ハマさんが、毎年お庭に咲く彼岸花の切り花を送って下さるというハマさんとの交流を含めて先生とのご縁が深まった思いが致します。

たった一本の作品でしたが、私の芸能生活に於いて強烈な印象と女優としての宝物を残して下さった忘れられない大切な先生です

と、語っています。

「山本富士子は「五社協定」のなか他社映画に毎年1本出演していた!」に続く


小津安二郎監督にお酌をする山本さん。

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