戦争が長引き、小学4年生の時には、食べ物も着る物もなかなか手に入らなくなったという、田原総一朗(たはら そういちろう)さんですが、やがて、学校でも軍事教練が始まり、戦争ムード一色となると、忘れられない体験を幾度もしたといいます。

「田原総一朗が小学生の時は戦争で生活が困窮していた!」からの続き

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小学校4年生の時に学校で軍事教練が始まる

田原さんが、小学4年生の時には、学校で軍事教練が始まったそうで、

授業や全校集会では、

今度の戦争はアジアの国々を解放し、独立させるための聖戦である。だから、君らはこの大東亜戦争に参加して、アジアの捨て石になれ

君らの寿命は20歳だと思え

と、繰り返し、繰り返し、教えられたそうです。

(田原さんのクラスは県下一の模範学級で、東条英機が首相の頃には総理大臣賞をもらっていたそうです)

軍事教練は厳しく殴られ鼻血を出したことも

ちなみに、軍事教練では、教師の指示や号令で行進曲に合わせて隊列を作ったり、木銃を持って行進するなど、集団で動く訓練をしたそうですが、訓練は厳しく、

田原さんは、教師が「天皇陛下」という言葉を言った時に、「気をつけ」をしなかったという理由で、殴られ、鼻血を出したこともあったそうです。

都会から疎開して来た子供たちに教科書を読む役目を取られ悔しい思いをしていた

そんな中、東京で戦火が激しくなり、東京から疎開してきた子どもたちが田原さんのクラスに加わったそうで、その子供たちは、勉強ができたうえ、標準語で話すことから、みんなのお手本として教科書を読む役目を先生から指示されたそうですが、

教科書を読む役目はそれまでずっと田原さんがやっていたそうで、その役目を東京から疎開して来た子供たちに取られ、とても悔しい思いをしたそうです。

(また、田原さんは、算数の成績がずっと「優」だったそうですが、疎開の子供たちがきた5年生の2学期だけは「良」になってしまったそうです)

戦意高揚の歌「勝ち抜く僕等少国民」を今でも歌うことができる

そして、この頃は、毎日、山に松根油を採りに行くのが日課になっていたそうで、クラス全員で行列を作って片道20分ほど歩いて近くの山に登って行ったそうですが、

(松の木の幹に筋状の傷をつけて竹のコップを置いておくと松脂が溜まるため、それを毎日採りに行っていたのだそうです)

その時には、戦意を高揚する、「勝ち抜く僕等少国民」という歌をクラスのみんなで歌ったそうで、

勝ち抜く僕等少国民 天皇陛下の御為に 死ねと教へた父母の 赤い血潮を受けついで 心に決死の白襷(しろだすき) かけて勇んで突撃だ

と、田原さんは今でも歌うことができるそうです。

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兵士を送り出す時に歌った「露営の歌」を今でも歌うことができる

また、近所に、赤紙(召集令状)が来て出征する兵士がいると、近所の人たちが集まって、日の丸の小旗を振ったり、バンザイをしたりしてその兵士を(悲しい気持ちを押し隠し、笑顔を浮かべながら)見送ったそうですが、その時には、「露営の歌」という歌を歌ったそうです。

ただ、出征から1年ぐらい経つと、今度は、出征した兵士たちの遺骨が次々と帰ってくるようになり、出征の時は、近所の人たちだけで見送っていたのが、遺骨を迎えるときは、できるだけ盛大にということで、遠方の町まで出向いて行ったそうですが、

遺骨といっても骨があるわけではなく、箱の中に毛髪が入っているだけだったため、田原さんは、何とも言えない悲しい気持ちになったそうです。

ちなみに、「露営の歌」は、

勝ってくるぞと勇ましく 誓って故郷を出たからは 手柄立てずに 死なりょうか 進軍ラッパ 聞くたびに 瞼に浮かぶ 旗の波

という歌だったそうですが、

やはり、この歌も、今でも忘れられないそうです。

「田原総一朗は海兵になって20歳で死ぬつもりだった!」に続く

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