早稲田大学第2文学部日本文学科に合格し、昼は「交通公社」で働き、夜は早稲田大学で勉強するという生活が始まった、田原総一朗(たはら そういちろう)さんですが、「交通公社」では、切符売り場に配属されるも、あまりいい思い出はなかったといいます。
「田原総一朗は早稲田大学に落ちたと思い込み聴講生を申し込もうとしていた!」からの続き
彦根弁を笑われていた
「交通公社」に入社した田原さんは、 まずは、東京駅前の丸ビルの案内所に配属され、窓口で切符や周遊券を売る仕事をすることになったそうですが、
仕事を始めた初日のこと、田原さんが窓口で一言しゃべると、(東京へ来てまだ日が浅く、彦根弁でしゃべっていたことから)同僚やお客さんがドッと笑ったそうで、1日で30回くらい笑われたそうです。
(高卒で交通公社に入社した同期社員は全国で約100人以上いたそうで、そのうち、案内所だけで40人くらいおり、そのうち9割が男性だったそうです)
3日で標準語を話せるようになる
それでも、田原さんは、3日ほどで標準語をしゃべれるようになったそうですが、後に、映画監督の大島渚さんとテレビ番組で対談した際、
僕は三日で完全な標準語になった
と、言うと、
大島さんも、
オレもそうだ
と、言っていたそうで、
大島さんも、松竹の助監督になった時、京都弁で話すと、スタッフたちがバカにして言うことを聞かなかったことから、すぐに標準語に直したのだそうです。
(「橋」と「箸」でいえば、東京弁では、橋は「し」にアクセントがあり、「箸」は「は」にアクセントがあるそうですが、関西弁では逆になるそうで、そのような違いが頭で分かっていたため、直すのは簡単だったそうです)
ただ、ちょうどその頃は、評論家の竹村健一氏が関西弁でブレイクした頃だったため、
オレたちもやっぱり関西弁で勝負した方がよかったんじゃないか
とも、盛り上がったそうです。
特急の番号を間違えて書きダブルブッキングのクレームが来たこともあった
また、「交通公社」は、当時、国鉄(JR)の関連会社だったため、田原さんは、「特ロ」と呼ばれた特急の寝台券や「特二」と呼ばれた夜行列車でシートが倒れる座席(特別二等の略)、周遊券と旅館のセットなどを盛んに売っていたそうですが、
(東京駅周辺には、当時から企業のオフィスが多かったため、会社員たちが出張のために切符を買いに来ていたそうです)
切符には、手書きで「特二の○号車○番」と記入しなければならないところ、ドジを踏んで番号を書き間違えることがあり、ダブルブッキングになっていたというクレームが来たこともあったそうです。
会社へ行くのが嫌になり仮病を使って休んだことも
さらに、新人だった田原さんには、知らない路線や駅がたくさんあったため、お客さんから「八高線」と言われても、どこの路線でどんな駅かも分からなかったため、仕方なく先輩に聞いたそうですが、
そのたびに、先輩から馬鹿にされたそうで、そのようなことが重なるうち、ついには、会社に行くのが嫌になってしまい、仮病を使い、会社を休んだこともあったそうです。
入社1年で切符売り場から定期券売り場に回されていた
そして、ついには、入社して1年ほどで、切符売り場から定期券の係に回されてしまったそうで、
田原さんは、その時のことを、著書「塀の上を走れ 田原総一朗自伝」で、
仕事を一生懸命にやったものの、客あしらいがまるでダメだった。今もそうだけれども、私は割に愛想が無いだけでなく、はにかみ屋で雑談も苦手なのだ。
接客はいまだに、上手くできない。つくづく勤め人には向いていないと思う
と、綴っています。
「田原総一朗は不正使用できる定期券をもらい異動させられていた!」に続く