1972年、ブリティッシュロックグループ「チューリップ」として、「魔法の黄色い靴」でメジャーデビューすると、以来50年以上、ミュージシャンとして活動している、財津和夫(ざいつ かずお)さん。今回は、そんな財津さんのルーツである父方の祖父をご紹介します。
年齢は?出身は?学歴は?
財津さんは、1948年2月19日生まれ、
福岡県福岡市の出身、
血液型はO型、
学歴は、
福岡県立香椎高校
⇒西南学院大学法学部中退
だそうです。
本名の由来は?
「財津和夫」は本名だそうですが、お父さんの國平さんにより、福岡の自宅近くにあった昭和鉄工の「和」の字を採って名付けられたそうです。
それにしても、適当な名付け方ですが、実は、財津さんには、昭平(あきら)さんと征雄(ゆきお)さんというお兄さんが2人いたそうですが、2人共、幼い頃に相次いで他界したそうで、嘆き悲しんだお父さんが、幼い息子たちを死なせてしまったのは、(名前にこだわって命名したため)名前が良すぎたからだと、
3番目に生まれた和夫さんのお兄さんには、「3番目の男」という意味で「三郎」、財津さんにも、前述の通り、名前にこだわらず名付けたのだそうです。
「和製ポール・マッカートニー」と呼ばれるも元々はジョン・レノンに憧れていた
また、財津さんは、「和製ポール・マッカートニー」と呼ばれているのですが、若い頃は、自由奔放なジョン・レノンさんに憧れていたそうです。
ただ、お母さんから、
普通の人間になりなさい!
と、諭されたことから、
それなら、バランス感覚の良いポール(マッカートニー)のような音楽家になろう
と、考えを改め、ポール・マッカートニーさんから、音楽的に多くの影響を受けるようになったそうです。
父方の祖父は熊本藩士
さておき、財津さんの祖父は緒方民平さんといい、1867年(慶応3年)に熊本藩士の家に生まれるのですが、
(民平さんの父・緒方小平太さんの給料は「元高十石」だったそうなので、暮らしは楽ではなかったようです)
1877年(明治10年)に西南戦争が勃発すると、城下にあった緒方家は消失してしまい、さらに、追い打ちをかけるように、2年後の1879年(明治12年)には、父・小平太さんが他界したそうです。
父方の祖父・民平はある教師のはからいで小学校に通うことができた
そのため、一家は経済的に困窮し、民平さんは小学校に通うこともできなくなってしまったそうで、学校の窓の外から、授業を立聞きしていたそうですが、1880年(明治13年)、13歳のある日のこと、一人の教師から声をかけられたことから、民平さんが事情を話すと、
その教師が、
学校で勉強してみないか?
と、言ってくれたそうで、
民平さんは、その教師のはからいで、小学校に通うことができるようになったそうです。
「財津和夫の祖父は朝鮮半島に移住し有数の農場経営者となっていた!」に続く