元プロ野球選手で「ミスター・ジャイアンツ」だった長嶋茂雄さんを父親に持つことが有名な、長嶋一茂(ながしま かずしげ)さんですが、実は、お母さんは4ヶ国語を操るマルチリンガルだったといいます。今回は、そんな一茂さんの両親を簡単にご紹介します。

「長嶋一茂が極真空手を始めたのはパニック障害を克服するためだった!」からの続き

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父親は元プロ野球選手でミスタージャイアンツ・巨人軍終身名誉監督の長嶋茂雄

一茂さんのお父さんは、元プロ野球選手で巨人軍終身名誉監督の長嶋茂雄(ながしま しげお)さんです。

長嶋さんは、1936年2月20日、町役場に務める父親のもと、4人兄弟の末っ子として誕生すると、小学校4年生の頃からお兄さんの影響で野球を始め、小学6年生の時には、お兄さんが所属していた青年野球団「ハヤテ・クラブ」に入団し、球拾いなどをするようになると、


長嶋茂雄さん。

その後、中学校の野球部では、主に足の速さで活躍すると、やがて、メキメキと頭角を現し、高校2年生の時には、4番打者に選ばれ、高校3年生の時には、大宮球場で行われた南関東大会で、センター後方バックスクリーンに叩き込む超特大ホームランを放つなど、たちまち才能を発揮。

その後も、立教大学4年生の時には、1956年の春季リーグ戦と1957年の秋季リーグ戦で首位打者を獲得するほか、ホームラン記録も樹立する活躍をみせ、同期の杉浦忠投手(南海ホークス・同監督)、主将を務めた本屋敷錦吾内野手(阪急ブレーブス・遊撃手)と共に「立教三羽烏」と呼ばれました。

父親の長嶋茂雄は「ミスター・プロ野球」と呼ばれ、絶大な人気を誇っていた

そんな長嶋さんは、1958年に「読売ジャイアンツ」に入団すると、いきなり、オープン戦で7本の本塁打を放ち、開幕戦の国鉄スワローズ戦ではエース金田正一に4席連続三振を喫するも、公式戦3試合目の4月7日の国鉄スワローズ戦で初安打、4月10日の大洋ホエールズ戦で初本塁打を放つと、8月6日の広島戦からは4番打者に抜擢され、この年、本塁打王と打点王の二冠王を獲得するほか新人王に輝く活躍で、チームの優勝に大きく貢献。

その後も、ここぞというチャンスでの勝負強さと派手なアクションで、「ミスター・プロ野球」と呼ばれるなど、絶大な人気を誇ると、結果、首位打者6回、本塁打王2回、打点王5回という素晴らしい成績を残し、1974年に現役引退しています。

また、その後は、1975~1980年、1993~2001年と2期15年に渡って巨人の監督を務めると、リーグ優勝5回、日本一2回という輝かしい記録を残し、2001年監督勇退後は、巨人の終身名誉監督に就任しています。

(2013年には国民栄誉賞も受賞しています)

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母親はマルチリンガルを活かし「第18回オリンピック東京大会」でコンパニオンを務めていた

また、一茂さんのお母さんは、亜希子さんというのですが、祖父(一茂さんの曽祖父)の西村辰五郎さんが、「西村陽吉」のペンネームで歌人として活躍するほか、出版社・「東雲堂書店」を経営し、石川啄木の「一握の砂」「悲しき玩具」、斎藤茂吉の「赤光」、北原白秋の「桐の花」、若山牧水の「別離」など、文学史に残る歌集を出版した人物
だったことから、裕福で何不自由なく育ったそうです。


長嶋亜希子さん。

そんな亜希子さんは、田園調布雙葉中学校・高等学校在学中に、米国インディアナ州のココモハイスクールに留学し、その後、ミネソタ州の聖テレサ大学を卒業すると、

英語、フランス語、スペイン語が堪能だったことから、1964年、第18回オリンピック東京大会では、堪能な外国語を駆使してコンパニオンとして活動していたそうですが、その時、スポーツ新聞社が企画した座談会で知り合った、長嶋茂雄さんと出会って4ヶ月で結婚したのだそうです。

ちなみに、結婚後は、長嶋茂雄さんの「男の職場に顔を出すな」という命を忠実に守り、ほとんど球場に応援に行くことがなかったほか、マスコミの前に姿を現すことも一切なかなく、陰からのサポートに専念していたそうです。

(亜希子さんは、2007年9月18日、心不全のため、64歳で他界されています)

「長嶋一茂の長島三奈以外の兄弟は?」に続く

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