立教大学4年生の時には、東京六大学の秋季リーグ戦で、惜しくも優勝を逃してしまった、長嶋一茂(ながしま かずしげ)さんですが、スカウトの注目を集め、結果、ドラフト会議では、横浜大洋ホエールズとヤクルトスワローズに一位指名され、抽選の結果、ヤクルトスワローズに入団します。
「長嶋一茂は東京六大学で優勝を逃した夜不覚にも彼女の実家で泣いていた!」からの続き
大学4年生の時にはプロ野球のスカウトから注目されるようになっていた
一茂さんは、大学3年生の春の時点では、打率1割7分6厘とパッとしなかったものの、大学4年生の時には、打率3割4分まで上昇したそうで、プロ野球のスカウトから注目を浴びるようになったそうですが、
(東京六大学秋のリーグ戦の最終試合が終わる頃には、セ・パ両リーグ12球団全てのプロ野球の球団スカウトが一茂さん獲得に向けて動き出しています)
一茂自身さんが志望していたのは、(東京で生まれ育ったことから、東京を離れることを嫌ったため)東京に本拠地を置く巨人とヤクルト、横浜に本拠地を置く横浜大洋の、セ・リーグ3球団だったそうです。
横浜大洋の古葉竹識が長嶋一茂の獲得に最も熱心だった
そんな中、3球団の中で一茂さん獲得に最も熱心だったのは、横浜大洋の古葉竹識(こば たけし)監督だったそうで、
(古葉監督は、現役時代には、一茂さんの父親である長嶋茂雄さんと熾烈な首位打者争いをしたことがありました)
古葉監督は、一茂さんの野手としての潜在能力の高さとカリスマ的ともいえるスター性を高く買い、ドラフト前の微妙な時期に、一茂さんをドラフト1位で指名すると宣言していたそうで、
一茂さん本人も、内心、古葉監督の心意気を感じ、古葉監督の下で野球をすることにも惹かれていたのだそうです。
巨人入団の夢は叶わなかった
とはいえ、お父さんの長嶋茂雄さんに憧れ、野球を始めた、一茂さんの第一志望は、なんと言っても巨人(読売ジャイアンツ)。
ただ、巨人は、この年(1987年)、江川卓投手が引退したことから、フロントが若手投手の補強を重要視したため、ドラフト会議(1987年11月18日)では、一茂さんを一位指名せず、PL学園の甲子園春夏連覇の立役者である橋本清投手を一位指名したのでした。
(ちなみに、当時の監督だった王貞治さんは、後に、巨人軍内部では、ドラフト会議が始まるぎりぎりまで、「今年最高の野手である」一茂さんを獲得すべきだという議論があったことを明かしています)
ヤクルトと横浜大洋から一位指名され抽選の結果ヤクルトに入団
それでも、一茂さんは、ヤクルトと横浜大洋から一位指名されると、抽選の結果、ヤクルトが交渉権を獲得し、「ヤクルトスワローズ」に入団したのでした。
ちなみに、当時ヤクルトの監督だった関根潤三さんは、著書「いいかげんがちょうどいい―85歳、野球で知った人生で大切なこと」で、
一茂のドラフト指名は僕の意向が強く働いた。六大学リーグでプレーする一茂を見に行って粗削りだけどものはいい。こりゃ素晴らしいプレーヤーになると思った
と、明かしています。
「長嶋一茂はヤクルト入団直後は自信がみなぎっていた!」に続く
いいかげんがちょうどいい―85歳、野球で知った人生で大切なこと