1987年11月26日にヤクルトスワローズと正式契約を交わし、その翌日には、早くもヤクルトの練習に一軍扱いで参加すると、緊張も不安も全く感じることなく、今は未熟でも練習さえ重ねればすぐに活躍出来ると思っていたという、長嶋一茂(ながしま かずしげ)さんは、プロ初安打(オープン戦)をホームランで飾る、華々しいデビューを果たすのですが・・・
「長嶋一茂はヤクルト入団直後は自信がみなぎっていた!」からの続き
オープン戦でプロ初安打をホームランで飾るも・・・
1987年11月にヤクルトスワローズへの入団が決まると、早くも、契約翌日から一軍扱いで練習に参加した一茂さんは、翌年の1988年春、立教大学を卒業すると、卒業式の翌日には渡米し、アリゾナ州ユマで行われていた、ヤクルトの一軍キャンプに合流したそうで、
4月27日の巨人とのオープン戦では、元大リーガーのビル・ガリクソン投手から、バックスクリーンを直撃する飛距離130メートルのホームランを放ち、大物新人らしく、初安打がホームランとなる、華々しいデビューを飾ります。
プロ初安打がホームランとなるもマグレ当たりだった
すると、一茂さんは、「ミスター(長嶋茂雄)二世」として、ますます、注目を浴びるようになるのですが・・・
実は、このホームランは、出会い頭のマグレ当たりのホームランだったそうで、打てたという実感は全くなかったのだそうです。
というのも、ガリクソン投手と対戦するのは二度目だったそうですが、最初の球がビュンと来るのを見た瞬間、(球がほとんど見えていなかったため)「ああもうこれは打てない。やっぱりこれは無理だな」と、心の底ではどこか諦めていたそうで、
とはいっても、バッターボックスから退散するわけにはいかず、とにかくバットを振るしかない、と開き直って振ったところ、たまたまバットにボールが当たってバックスクリーンまで飛んで行ったのだそうです。
(ちなみに、センターのクロマティ選手が、(記念すべき初ホームランのボールを、きっとあのルーキーは欲しがるだろうと思ってくれたのか)バックスクリーンに当たって跳ね返り、グランドに戻ってきたボールをわざわざ拾ってヤクルトのブルペンに投げ込んでくれ、それをブルペンにいた荒木大輔投手が持ってきてくれたそうで、一茂さんは、「ありがとうございます」と言って受け取ったそうですが、一茂さんはそのボールに愛着などはなく、すぐにどこかへ失くしてしまったそうです)
ヤクルト入団1年目は低迷が続いていた
案の定、その後も一茂さんの成績はパッとしなかったそうで、入団1年目から一軍登録されてはいたものの、打席に立つのはもっぱら代打としてで、レギュラーの座を獲得することはできなかったそうです。
そんな中、一茂さんは、大学時代と同じように、田園調布の自宅の地下室で父・長嶋茂雄さんの猛特訓を受け、毎日のように、300~500球のティーバッティングを続けたそうですが、一向に打撃成績は上がらなかったのだそうです。
ベーブ・ルースの霊やUFOに語りかけるなど精神のバランスを崩していた
実は、一茂さんは、プロの野球選手になってすぐ、お父さん(長嶋茂雄さん)のような野球選手になることは無理だと悟り、お父さんのようにはなれないという現実から逃避するようになっていったそうで、
毎晩寝る前、天井を見上げては、ベーブ・ルースの精霊に「明日の打席でホームランを打たせてください」とお祈りするほか、暇さえあれば、(UFOに遭遇して超能力がついたという記事を何かで読んだことから)心の中でUFOに「自分のところに飛んできてくれ」と必死に呼びかけていたそうで、そのことを拠り所として、なんとか心身のバランスを保っていたのだそうです。
(この現実逃避が一茂さんの心をかろうじて守ってくれたそうで、現実逃避をしていなければ、確実にノイローゼになっていただろうとのことです)
「長嶋一茂はプロ3年目に監督が野村克也となり雲行きが怪しくなっていた!」に続く