南海ホークス移籍1年目の1976年、痛めていた肩と肘の影響で成績がパッとしなかった、江夏豊(えなつ ゆたか)さんは、2年目の1977年には、野村克也監督からリリーフ転向を打診されたそうですが、なかなか納得いかず、1ヶ月ほどはリリーフをやるやらないで野村監督と話し合いが平行線をたどっていたそうですが、ある時、野村監督がぼそっと言った「革命」という言葉で気持ちが変わったといいます。
「江夏豊は野村克也監督からリリーフ転向を打診されるも拒否していた!」からの続き
野村克也監督とは家族ぐるみの付き合いをしていた
江夏さんと野村克也監督は、棟は違うものの、隣り合ったマンションに住むご近所同士で、家族ぐるみの付き合いをしていたそうで、
一緒に試合から帰り、それぞれの家でご飯を食べた後は、江夏さんが野村さんのマンションを訪ね、夜明けまで野球談義をするのが日課というほど、親しくしていたそうです。
(二人ともタバコが好きで、一晩、喋り明かすと、大きな灰皿に吸い殻が山盛りになったそうです)
野村監督からリリーフとして「革命を起こしてみろよ」と説得されていた
そんなある晩のこと、空が白み始め、いつものように灰皿が山盛りになり、そろそろ部屋に帰って寝ようかという時、
野村監督が、
なあ豊、野球界にいっぺん、革命を起こしてみろよ
と、ぼそっと言ったそうで、
江夏さんが、
革命ってなんですか
と、尋ねると、
野村監督は、
これからの野球は変わる。もう一人の投手で1試合をまかなう時代じゃない。一日中マシンを相手に打てる打者の技術向上はすごい。反対に投手は一日中ボールを投げてるわけにはいかん。肩は消耗品だから
マシンを相手にいくらでも打ち込める打者は、まずパワーが格段に向上する。そして技術の世界にはパワーがあって初めて身につく技術もある。
だから打者のレベルの技術向上にはキリがない。かたや生身の腕しか頼るもののない投手は、いくら工夫して練習するといっても限界がある。投打の差が広がっていったときに、どうすれば投手が打者を抑えられるか。
それには投手を分業化し、先発、中継ぎ、抑えとそれぞれの役割に徹することで対抗するしかない。分業制が確立されたチームでなければ、これからは勝てないんや・・・。
と、これからの野球は一人の投手が先発完投するのではなく、リリーフ専門投手が必要になるんだと言ったのだそうです。
野村克也監督の「革命」という言葉に心を動かされる
それでも、まだ、江夏さんは、この説明はスジが通っているとは感じたものの、ピンとこなかったそうですが、
野村監督は、そんな江夏さんを見透かしたかのように、
豊、考えてみろ。これまでの一流選手っちゅうのは打って、守って、走ってというのが一流だった。今は違うだろう。守れなくても打つだけでいいとか、走れなくても打つだけでいいとか、そういう選手が出てきたやろ。現にDH(指名打者制度)ができたじゃないか
前後期制もそうや。阪急みたいに桁違いに強いチームができたらヨーイドンで優勝が決まってしまう。130試合のうち100試合が消化試合になってしまうんだ。前後期制にすれば まだ、ファンも長く楽しめる。これも新しい時代が来たっちゅうことなんや
と、続けたそうで、
(DH制は、1973年にメジャーのアメリカン・リーグで採用されたもので、投手が打席に立たず、打者専門の選手をラインアップに据えることで、打撃戦の増加を狙ったもの。投手戦は「玄人ウケ」するものの、ファンは派手な打ち合いでたくさん点が入る試合を見たいだろうというのが狙いで、これに倣(なら)い、パ・リーグも人気低迷の打開策として1975年から採用しています)
これを聞いた江夏さんは、それまでは、リリーフなど降格で屈辱以外の何物でもなかったのが、革命ならやってみる価値があるかもしれないと思ったそうで、
野村監督から「革命」という言葉を聞いた時のことを、著書「燃えよ左腕: 江夏豊という人生」で、
戦いの場に身を置く者にとって、これほど魅力的な言葉はない。明治維新、キューバ革命。時代の節目、変わり目に、英雄になる者もあれば、死んでいく者もある。男が最高に燃える瞬間だ。ノムさんは計算ずくで話したのではなく、偶然出た言葉らしいが、自分にはビーンときた。
と、綴っています。
「江夏豊は南海でリリーフ転向後いきなりセーブ王を獲得していた!」に続く