1978年、移籍した広島では、古葉竹識監督が選手を大人扱いしてくれたことで、十分に肩を休めることができたほか、調整がうまくいき、ボールの勢いが復活したという、江夏豊(えなつ ゆたか)さんは、この年、5勝4敗12セーブを挙げると、翌年1979年には、9勝5敗22セーブを挙げ、広島のリーグ優勝に大きく貢献します。

「江夏豊は広島移籍後は衰えていた球の勢いが回復していた!」からの続き

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広島移籍後、プロ13年目にして初の優勝を経験

広島に移籍して1年目の1978年、5勝4敗12セーブと復活を遂げた江夏さんは、移籍2年目の翌1979年には、9勝5敗22セーブとさらに成績を伸ばしているのですが、

この年の10月6日、マジック1で迎えた、広島市民球場での古巣阪神戦では、2-1とリードした8回1死、池谷公二郎投手に代わり登板すると、スパッと打者2人を抑えたものの、

その裏、味方・ギャレットの2ランで4-1とリードを広げると、これで優勝できると思い、急にぼーっとなったそうで

9回には、四球から走者をため、代打の川藤幸三選手にタイムリーツーベース打たれて4-2となると、味方のエラーで4-3。

しかし、ここで気持ちを切り替えて、最後は佐野仙好選手をセカンドへのハーフライナーに打ち取ると、飛び出したランナーが戻れずゲッツーとなって試合終了となり、自身、プロ13年目にして、初の優勝を経験したそうで、

江夏さんは、著書「燃えよ左腕 江夏豊という人生(日本経済新聞出版)」で、

マウンドを駆け降り、捕手の道原博幸に飛びついた。阪神時代から巨人の優勝ばかり見てきた。他人のビールかけを見ては、ビールは飲むもんだ、もったいないことをする、と思っていたけれど、自分たちがやれる立場になって初めてわかった。

勝負事はやっぱり勝たなくちゃいけない、勝つってことがどれだけすばらしいことか、また反対に、勝つことがどれだけ難しいか・・・。

働いた人も働けなかった人も、主力であろうが脇役であろうが、選手も裏方さんも、みんなが喜び合えるのが優勝だ。 いくら個人の勝ち星が伸びようが、記録を達成しようが、この喜びは味わえない。

と、喜びを綴っています。


1979年の広島カープ優勝の瞬間。(左から)捕手の道原博幸さん、江夏さん、遊撃手の木下富雄さん。

初の日本シリーズは猛牛打線を誇る近鉄バッファローズだった

その後、日本シリーズでは、チーム打率2割8分5厘195本塁打という「猛牛打線」を誇る近鉄バッファローとの対戦となるのですが、

第1戦、2-5で近鉄に敗れると、江夏さんは、第2戦、0-0の7回裏、無死1、3塁で日本シリーズ初登板を果たすも、代打のアーノルドに先制犠飛を打たれ0-1とされると、羽田耕一選手にセンター前ヒットを打たれ0-2、そして、有田修三選手に2ランを打たれ、0-4とボロボロだったそうで、結局、そのまま負けてしまいます。

それでも、第3戦では、3-2とリードした8回から登板し、2イニングを1安打無失点に抑え、日本シリーズ初勝利を果たすと、

第4戦は福士敬章投手が完投して5-3で勝利、第5戦は山根和夫投手が完封して1-0で勝利、第6戦は2-6で敗れ、3勝3敗となります。

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日本シリーズ第7戦では9回無死満塁のピンチとなっていた

そして、第7戦、4-3とリードの7回2死1塁で登板した江夏さんは、このピンチを切り抜けると、3番のマニエルから始まる次の8回も3者凡退に抑えるのですが・・・

日本一まであとアウト3つとなった9回、先頭打者の羽田耕一選手に不用意に投げた初球をセンター前ヒットとされると、羽田選手に代わって代走に出た俊足の藤瀬史朗選手がスタート。

そこで、捕手の水沼四郎選手が2塁に投げるも送球がそれ、藤瀬選手には3塁まで進塁されたことから、打者のアーノルドを歩かせると、今度はアーノルドの代走として出た吹石徳一選手が二塁に盗塁して無死2、3塁。

結局、次の打者の平野光泰選手も敬遠し、満塁策を取るのですが、一気に逆転サヨナラ負けのピンチとなってしまいます。

「江夏豊は「21球」の直前に味方ベンチにブチ切れしかけていた!」に続く


燃えよ左腕 江夏豊という人生(日本経済新聞出版)

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