東京六大学野球で通算22本塁打という新記録を樹立した、田淵幸一(たぶち こういち)さんは、ドラフトを前に、5球団から誘われる中、憧れの巨人の川上哲治監督から熱心に誘われ、巨人入り以外は考えられなくなっていたそうですが・・・

「田淵幸一は東京六大学野球で通算22本塁打の新記録を達成していた!」からの続き

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巨人の川上哲治監督に巨人入りを熱心に誘われていた

東京六大学野球では4年間で22本塁打を放ち、それまでの東京六大学野球記録だった8本塁打を大きく更新した田淵さんは、大学4年秋のリーグ戦終了後の11月、お父さんと共に、当時、巨人の監督だった川上哲治さんに会いに、東京・赤坂のとあるふぐ料理店に出向いたそうです。

(川上さんは、現役時代は、「打撃の神様」と称されるほか、監督としても、巨人を1965年から4年連続優勝に導いていました)

すると、川上さんからは、

田淵君には背番号2を用意している

君には巨人軍の四番を打ってもらう。三番が王、五番が長嶋。背番号が1、2、3と並ぶ。それが来季の巨人の売りだ

と、熱心に誘われたそうで、

田淵さんは、当時、V4と連続日本一を更新中の名監督に誘われたことで舞い上がり、後楽園球場(当時の巨人のホームグラウンド)のスコアボートに、王さん、長嶋さんと共に自分の名前が並んでいるのを想像し、体が震えたそうです。

(田淵さんは、子供の頃は、お父さんがサインボールをもらってくれた毎日オリオンズ(現・ロッテ)を応援していたそうですが、当時、テレビ中継は巨人戦しかなく、自然と「ON」(長嶋茂雄さんと王貞治さん)がいる巨人ファンになっていたそうで、巨人に入りたかったそうです)

巨人以外は入団を拒否すると宣言するも・・・

そして、ドラフト前日の11月11日には、田淵さんのお父さんも、集まった記者たちに、

あいつは巨人ファンなんです。だから巨人に行きたいらしい。でも、ドラフトでは希望が通らないかもしれない。もし、本人も我々も納得できない球団に指名されたら、無理にプロへ行く必要はないと考えています

と、1球団でも指名しそうな球団を減らすために、巨人以外は入団を拒否、その場合は社会人に進むと宣言したのだそうです。

5球団(巨人、大洋、南海、東京、東映)から誘われていた

そんな中、巨人の前川八郎スカウトも、

(巨人のオーナーである)正力亨(しょうりき とおる)さんも田淵だけは絶対欲しいと言っている。最近は夢にまで田淵が出てくるよ

と、言って、相思相愛だったのですが、

大洋ホエールズ(現・DNA)、南海ホークス(現・ソフトバンク)、東京オリオンズ(現・ロッテ)、東映フライヤーズ(現・日本ハム)も、ドラフトで指名権さえ取れればと、田淵さん獲得に手を挙げていたそうで、

東京オリオンズ(現・ロッテ)の青木一三スカウトは、

一番クジさえ当たればズバリ田淵指名。セ・リーグが希望?いや、クジさえ当たれば絶対に獲ってみせる

と、強気な姿勢をみせていたのだそうです。

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阪神は内野手の富田勝狙いで田淵の家には挨拶に来なかった

一方、阪神タイガースはというと、投手を除くレギュラー8人のうち5人が左打者で、右打者の小玉明利選手が33歳、吉田義男選手も35歳と、年齢からくる衰えも目立ち始めていたため、田淵さん、山本浩司(後に浩二)さんと共に、「法政三羽烏」と呼ばれていた、右打者の富田勝さんを欲しがっていたそうで、

当時のオーナーの野田誠三氏の、

とにかく打てなきゃおもしろくない。打てるチームにせよ!

という、至上命令のもと、

戸沢一隆球団社長は、「右の長打力のある打者」と、補強ポイントを挙げて、

目標は若返りと守りから攻撃への体質改善。新しい血を送り込んで溌溂(はつらつ)としたチームにする

と、断言しており、

(阪神は、辻佳紀選手、辻恭彦選手の2人の捕手が健在だったことから、手薄の三塁手を欲しがっており、同じ法政大でも地元・大阪市天王寺区出身で、興国高時代から大型内野手として有名だった富田勝さんが第一候補だったそうです)

田淵さんの家には、5球団(巨人、大洋、南海、東京、東映)が挨拶に来る中、阪神は、一度も挨拶に来なかったのだそうです。

「田淵幸一はドラフトで阪神に1位指名されていた!」に続く

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