ルーキーイヤーのオープン戦では、弱点の内角高めを攻められ、自分のバッティングを崩されていた、田淵幸一(たぶち こういち)さんですが、ペナントレースが開幕すると、2日目にして、2打席連続ホームランを放つなど、ホームランを連発していき、やがては、若きエース・江夏豊投手と共に「黄金バッテリー」と呼ばれるようになっていきます。
「田淵幸一はルーキーで開幕2日目に2打席連続本塁打を放っていた!」からの続き
当初は江夏豊から捕球について注文を出されていた
田淵さんは、ルーキーイヤーの1969年、高知・安芸キャンプで、江夏豊さんのボールを捕球した際、その球威に押されることが多かったそうで、
江夏さんに、
右バッターの内角の球(クロスファイヤー)を捕るときミットが流れる。ボールにされるからしっかり捕ってくれ
と、注文を出されていたといいます。
江夏豊の投球をボールにしないように左腕を鉄アレイで鍛えていた
そんな江夏さんは、指が太くて短いため、変化球はあまり曲がらず、基本的には、クロスファイヤーなどストレートだけで三振の山を築いていたそうで、
田淵さんは、自分の未熟な技術で、江夏さんの投球をボールにするわけにはいかないと、球の勢いに押されないよう、鉄アレイでミットをはめる左の腕を鍛えたそうですが、
これが、結果的に、打撃の強化にもつながったそうで、右打者にとって、スイングの際に重要な左腕のパワーが高まり、持ち前の長打力にも磨きがかかったのだそうです。
(江夏さんは、田淵さんよりも2歳年下だったそうですが、プロとしては2年先輩で、前年の1968年には、25勝を挙げるほか、シーズン401奪三振をマークし、すでにエース格として君臨していたそうです)
江夏豊と息ピッタリに
そして、開幕から5試合目の1969年4月19日、中日1回戦では、江夏さんが先発し、田淵さんが捕手をすると、1死から3連打を浴び、満塁のピンチを招いたそうですが、
江夏さんが、慌てず、
中日は右狙いだ
と、言うと、
田淵さんも、
きょうのお前はカーブがいい。これを生かそう
と、ビッタリ呼吸を合わせて、無失点で乗り切り、
4回には、田淵さんが、無死一塁から中日・小野投手の内角高めのスライダーを、ポールを巻いてレフトスタンド上段へ3号2ランホームランを放つと、江夏さんも、2試合連続12奪三振4安打で完封したそうです。
(次の対戦相手である巨人の小松スコアラーは、田淵さんのことを「内角高めが弱いはずじゃあ・・・あのコースも打てるんだ」と、メモを取ったといいます)
江夏豊と共に「黄金バッテリー」と呼ばれるようになる
また、4月23日の後楽園での巨人1回戦では、江夏さんがキャンプでひそかにマスターしていた「フォークボール」を初めて披露し、巨人打線を2安打に抑えて連続完封すると、田淵さんと江夏さんはしっかりと勝利の握手をしたそうで、
(巨人のベンチでは、「なんだ、いまの球は?」と、王貞治さんがスコアラーからの情報を確認するほか、長嶋茂雄さんも、「フォーク?去年にはなかったボールだ」と驚きの声をあげていたそうです)
以降、ON(王さんと長嶋さん)を擁する強い巨人に立ち向かった二人は、やがて、「黄金バッテリー」と呼ばれるようになったのでした。
「田淵幸一はルーキーのとき捕手から一塁手に転向し本塁打を量産するも・・・」に続く
田淵さん(左)と江夏さん(右)。