ルーキーイヤーの1969年には、シーズン終盤に盛り返して22本塁打し、「新人王」に輝いた、田淵幸一(たぶち こういち)さんは、プロ入り2年目の1970年も、オールスター前に17本塁打と、順調に本塁打を量産していたのですが、8月26日の広島戦には、外木場義郎投手から左こめかみに死球を受け4日間もの間、意識不明となっていたといいます。

「田淵幸一はルーキーのとき残15試合7本塁打で新人王を獲得していた!」からの続き

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広島・外木場義郎投手からこめかみに死球を受け意識不明となっていた

田淵さんは、8月26日の広島戦で、遠井吾郎選手の逆転満塁本塁打の後、1死一塁という場面で、バッターボックスに入ったそうですが、

初球、いきなり、外木場義郎投手の投球が左側頭部(こめかみ)に直撃すると、耳から大量の血を流し、意識不明となって、救急車で西宮市の明和病院に搬送されます。

(田淵さんは、外木場投手の指からボールが離れた瞬間から記憶がないそうです)

頭部を切開して血腫を取り除くか、もう少し様子を見るか、選択を迫られていた

ちなみに、その時の様子を、同僚の江夏豊投手は、

当たった瞬間、自分はベンチから飛び出していったけど、体中が痙攣しとったな。噴水みたいに血が吹き出ていて、近寄るのが怖かったよ。

と、生々しく語っているのですが、

その後、田淵さんは、ずっと意識が戻らないまま、9月1日、大阪市福島区の大阪厚生年金病院に転院すると、尾藤昭二脳神経外科部長から、頭部を切開して血腫を取り除くか(意識は戻るが野球はできなくなる)、もう少し様子を見るか、選択を迫られたそうで、田淵さんのお父さんは、「もう一度野球ができるようにしてください」と答えたのだそうです。


血まみれの状態で運ばれる田淵さん。

ただ、意識がないまま、いつまでも放置しておくわけにはいかず、あと2日待って意識が戻らなければ切開することになったそうで、タイムリミットが迫る中、尾藤医師が顎から頭に電流を流したところ、そのショックで意識が回復したそうで、頭部切開は寸前で回避されたのだそうです。

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逆行性健忘症のお陰で打撃に影響が残らなかった?

こうして、選手生命の危機を脱した田淵さんは、「側頭葉脳挫傷」「頭蓋内出血」と全治3ヶ月の重症だったのですが、歩行訓練から始めると、最初の練習ではひどく蛇行したものの、順調に回復したそうで、

11月16日からは、甲子園の秋季練習にも参加し、当時は秋にも行われていたオープン戦の近鉄戦第2試合に、無事、代打で復帰を果たしたのでした。

ちなみに、田淵さんは、ボールが当たった瞬間の記憶がないことから(逆行性健忘症)、メンタル的に、死球を受けた後遺症は残らなかったそうですが、もし、そうでなく、恐怖が残っていたら、その後の野球人生はなかっただろうと、語っています。

ただ、この試合でファーストを守っていた衣笠祥雄さんは、

田淵はあのデッドボールがなかったら、ホームランは通算500本、いや600本までいっていただろうな。彼はあれから6回か7回、頭にぶつけられているのよ。それでいつか言ったことがある。

“お前、ボールがここ(頭部付近)に来たら逃げろよ”と。ところが本人によると、頭ではわかっていても”動けなくなる”んだって。瞬間的に恐怖が蘇リ、ロックが掛かるらしいんだ。トラウマってやつなんだろうね……

と、語っていることから、

田淵さんは、公の場では、外木場投手に気を遣わせまいと、影響がなかったと言ったのかもしれません。


我が道

「田淵幸一は外木場義郎からこめかみ死球の前に肘にも死球を受けていた!」に続く


左こめかみに死球を受け、倒れる田淵さん。

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