広岡達朗監督からは、監督就任挨拶の際、全選手の前で、給料泥棒呼ばわりされるも、広岡監督の提唱する食生活に積極的に取り組むようになり、94キロから88キロのダイエットに成功したという、田淵幸一(たぶち こういち)さんですが、皮肉にも、それが仇となり、急激なダイエットにで集中力がなくなり、眠気に襲われるようになったといいます。

「田淵幸一は広岡達朗監督に全選手の前で批判されていた!」からの続き

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広岡達朗監督の「管理野球」を受け入れて体質改善に取り組みダイエット成功も・・・

当初は、広岡達朗監督の「管理野球」を受け入れることができなかったという田淵さんですが、徐々に受け入れるようになると、故障の少ない体にするため、積極的に体質改善に取り組み、94キロから88キロのダイエットに成功したそうで、

広岡監督も、後年、

当時、西武はベテラン選手が多く、自然食中心の生活を強いることで、故障の少ない体質に改善する必要があった。田淵は素直で驚くほど積極的に体質改善に取り組んでくれた。彼が率先してやってくれたことで大いに助かった

と、語っているのですが、

田淵さんが積極的に体質改善に取り組んだのは、ずばり、優勝したかったからだといいます。

というのも、田淵さんと共に法政三羽烏と言われた、山本浩司(後に浩二)さんも、冨田勝さんも、僚友の江夏豊さんも既に優勝を経験しており、田淵さんただ一人だけが優勝経験がなかったのだそうです。

スタメンで出たり外れたりを繰り返し悶々とした日々を送っていた

そんな田淵さんは、広岡監督が「田淵はDHではなく一塁で使う」と話していたことを新聞で知り、練習は7対3の割合で守備に重点を置いていたそうですが、

1982年4月3日の開幕戦(日本ハム戦)から7試合は4番一塁だったものの、その後、4月12日の阪急(現・オリックス)戦からはDHとなり、4月30日、南海(現・ソフトバンク)戦では、スタメンを外れると、

以降、スタメンだったり、途中出場だったりしたそうで、そんな状況に、悶々とした日々を送ったそうです。

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広岡監督の厳しい批判に「この人にはもうついていけない」と思っていた

そんな中、94キロから88キロに急激に体重を落としたせいか、集中力がなくなり、時々、眠気に襲われたそうで、そのことを親しい記者に漏らすと・・・

後日、新聞に、広岡監督の、

田淵は甘えてるんですよ。太って打てるなら100キロでも200キロでもなればいい

とのコメントが載っていたそうで、

田淵さんは、

この人にはもうついていけない

と、思い、代打要員でいいから、巨人でプレーできないか、とまで思い詰めたのだそうです。

「田淵幸一は西武で日本一になり広岡監督が間違っていなかったと感じていた!」に続く

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