選手の素質を見抜き、その選手に応じた指導で、名選手を世に送り出してきた、中西太(なかにし ふとし)さんですが、それは、日本人選手にとどまらず、外国人選手にまで及んでいます。今回は、シーズン中に中日から近鉄に移籍し、「三振王」から「本塁打王」へと変貌を遂げた、ラルフ・ブライアント選手とのエピソードをご紹介します。

「中西太は八重樫幸雄のオープンスタンスを発案していた!」からの続き

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ブライアントはメジャーで活躍できずチャンスを求めて中日のオファーを受けていた

ラルフ・ブライアント選手は、1981年6月、ドラフト1位でドジャースと契約するのですが、マイナーではよく打つものの、メジャーでは確実性のなさが原因で、3年間で79試合しか出場していなかったそうです。

そんなブライアント選手は、1987年のオフ、日本の中日ドラゴンズからオファーを受けると、ドジャースのラソーダ監督(当時)に、直接、「来年は出番があるか」と尋ねたそうですが、「少ないだろう」との返事だったそうで、これを聞き、チャンスを求めて日本行きを決意したそうです。

ブライアントは開幕から二軍生活を余儀なくされていた

こうして、ブライアント選手は、1988年に来日するのですが、当時、外国人選手の一軍登録が2人だけだった中、中日にはすでに、ゲーリー選手と郭源治選手の2人の外国人がいて、どちらも好調だったことから、ブライアント選手の入リ込む余地はなく、開幕から2軍生活を余儀なくされたそうで、

ブライアント選手は、当時の生活について、

苦労した記憶しかない。朝が早いし、練習がハード。日本語が理解できないのに通訳もいない。まるで軍隊生活をしているみたいだった

と、語っています。

中日の二軍でくすぶっていたブライアントを見出していた

そんな中、近鉄で打撃コーチをしていた中西さんは、仰木監督とともに中日二軍を視察した際、ゲーリー選手と郭選手の活躍で一軍での出場の見込みがなく、二軍でくすぶっていたブライアントさんに目をつけたそうで、

ブライアント選手の(粗削りで、三振も多かったものの)長打力に魅了を感じ、「獲れ。ワシが直す」と、仰木監督に進言し、

(中西さんは、2歳年下の仰木監督に頼まれ、打撃コーチを引き受けていました)

1988年6月27日、ブライアントさんは、中日から近鉄バファローズに金銭トレードされたのでした。

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近鉄は主砲リチャード・デービスが大麻不法所持により逮捕&解雇され苦戦中だった

ちなみに、当時、近鉄は2位で、首位の西武を追っていたのですが、主砲として活躍していたリチャード・デービス選手が大麻不法所持により逮捕され、解雇したことから、得点力が低下し、西武とのゲーム差も広がっていたそうで、デービス選手の穴を埋める選手が必要だったのでした。

「中西太はブライアントに「三振してもいい」と指導していた!」に続く

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