監督就任1年目の1975年、「阪神相撲部屋」と言われるほどに太ったベテラン選手たちをスリム化させようと、徹底的に走らせたという、吉田義男(よしだ よしお)さんは、翌1976年には、前年度の1/3の選手を入れ替えるなど、チーム改革を行ったそうですが、そんな中、1973年にドラフト6位指名で入団した掛布雅之選手が台頭してきたといいます。
「吉田義男の阪神監督第1期は「走るチーム」を目標にしていた!」からの続き
前年度の1/3の選手を入れ替えるチーム改革を進めていた
吉田さんは、監督2年目の1976年には、エースの江夏豊投手をトレードで南海に放出して、代わりに江本孟紀投手を獲得し、打撃陣では、マイク・ラインバック選手とハル・ブリーデン選手の2人の外国人選手を獲得するほか、日本ハムから東田正義選手をトレードで獲得し、投手コーチを小山正明さんから皆川睦雄さんに、守備コーチを安藤統男から一枝修平さんに交代するなど、前年度の1/3の選手を入れ替えるチーム改革を進めたそうです。
(この方針に、周囲からは性急過ぎるという批判を受けたそうですが、吉田さんは、淀んだ空気をかき混ぜ、競争原理が働くようにならなければ強くならないと考えていたそうです)
監督就任2年目の1976年は開幕から好調で2位だった
そんな中、千葉県の習志野高等学校を卒業後、知人を介して阪神の入団テストを受け、1973年オフにドラフト6位指名で入団していた掛布雅之選手が、急成長して加わったそうで、
チームは、最終的には2位に終わったものの、193本塁打と当時のプロ野球記録を更新するほか、シーズン終盤には、巨人との一騎打ちを演じたのだそうです。
(開幕から好調で、7月まで巨人と首位争いを展開するも、7月終盤から9連敗。ただ、首位の巨人も7連敗。10月始めまで猛烈に追い上げたそうですが、結局、巨人に逃げ切られたそうです)
掛布雅之の父親からはレギュラー選手にして欲しいと言われていた
ちなみに、吉田さんは、掛布雅之選手の2年目のシーズンの1975年に、掛布選手のお父さんの泰治さんに会ったことがあったそうで、
その際、泰治さんから、
私は、雅之をどんなことにも耐えられるように育ててきました。びしびし鍛えて、なんとかレギュラーの選手にしてやってください
と、言われたそうですが、
実際、この言葉に嘘はなかったといいます。
(泰治さんは、太平洋戦争前の一時期、千葉県千葉商業学校で教員をしながら、硬式野球部の部長と監督を兼務していたことがあったそうです)
掛布雅之は千本ノックでもへこたれなかった
というのも、掛布選手は、キャンプの時、球場で400メートルを10周する長距離走でいつも一番だったほか、全ての練習が終わった後に行われる「特守」と呼ばれる特訓でも、藤村隆、安藤統男、梅本正之の3人のコーチが入れ替わり立ち替わり、千本ノックを浴びせても、ユニホームを泥だらけにして立ち向かい、決してへこたれなかったのだそうです。
また、掛布選手は、宿舎でも合宿所でも、誰よりも多くバットを振り、千葉の実家に帰る時も、布の立派なケースにバットを入れて持ち帰り、一日も休まず、素振りを繰り返していたそうで、
吉田さんは、そんな掛布選手のことを、著書「阪神タイガース」で、
その練習量、その気迫において、彼を上回った選手を私は知らない。心・技・体とよく言われるが、私は、まず体力が肝心だと思う。揺るぎない体力を持つことで気力が生まれ、そして技術が伸びていく。掛布がその典型例である。
と、絶賛しています。
「吉田義男は掛布雅之と佐野仙好にサードのレギュラー争いをさせていた!」に続く