フランスから一時帰国していた、1996年10月2日深夜、阪神タイガース・三好一彦球団社長から電話を受け、翌日3日の午前5時半には自宅に訪問され、阪神監督要請を受けるも、一旦は固辞し、フランスに発ったという、吉田義男(よしだ よしお)さんですが、フランスに到着し、フランスの選手がひたむきに練習に打ち込む姿を見るうち、阪神の監督を引き受けてみようという気持ちになったといいます。

「吉田義男は阪神からの3度目の監督オファーを一旦は辞退していた!」からの続き

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成長したフランス選手の姿を見るうち阪神の監督を引き受けてみる気になっていた

阪神タイガース・三好一彦球団社長から熱心に監督要請を受けたことから、監督をやることに反対だった奥さんは、フランスに出発前、心配そうにしていたそうで、

吉田さんは、

心配せんでええよ。引き受けることは絶対にない

と、言っていたそうですが・・・

フランスに帰り、ゼロからスタートして少しずつ成長し、今では野球の楽しさに取り憑かれ、夢中になって白球を追いかけているフランスの選手の姿を見ているうち、

やってみるか

と、なってしまったそうです。

フランス選手のひたむきな姿を見るうち阪神ナインにこのことを伝えるのが使命だと感じていた

というのも、フランスの選手たちは、ゴロを顔面に受けようが、ユニホームが擦り切れようがかまわず、泥だらけになって一つの球を追っていたそうで、

そんなひたむきな姿に、吉田さんは、野球本来の楽しさや、山城高校時代、手作りのグラウンドで、仲間と力を合わせて甲子園を目指していた頃の気持ちを思い出し、

もしかすると、今の阪神タイガースに一番足りないものは、これなのではないか

フランスチームに教えられた「初心」を持ち帰って、阪神ナインに与えることが、私の役割なのかもしれない

と、考えたのだそうです。

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フランス・パリから国際電話で阪神の監督オファーを引き受けていた

また、吉田さんは、1989年にフランスチームの監督要請の話があった際、迷っている吉田さんにアドバイスをくれた、恩師・盛永老師の、

野球しかないのなら、野球をやればいいではないか

という、言葉が胸に浮かんできたそうで、

盛永老師は、既に前年1995年に他界されていたそうですが、今も、自身の中で生き続けている盛永老師に、

私は、引き受けるべきでしょうか

と、決断を仰ぐと、

過去のいきさつはどうあれ、君はタイガースが好きなんだろう?最後のご奉仕と心得て、死んだ気になってやってみろ

という、盛永老師の声が聞こえた気がしたそうで、

吉田さんは、奥さんに謝り、三好球団社長に、パリから国際電話をかけて、監督就任を引き受けたのだそうです。

「吉田義男は新庄剛志にモヒカンにするよう言っていた!」に続く

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