1962年には、27勝11敗、防御率1.66、47イニング連続無失点、270奪三振、13完封(セ・リーグ記録と)という素晴らしい成績で、阪神タイガースのリーグ優勝に大きく貢献した、小山正明(こやま まさあき)さんですが、MVP(最優秀選手)に選ばれたのは、小山さんとともに2本柱として活躍した、後輩の村山実さんでした。(村山さんの成績は25勝14敗、防御率1.20、265奪三振)

「小山正明は練習で暴投し三宅秀史の左目を大ケガさせていた!」からの続き

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MVPの選考結果に不満を抱いていると噂されるも・・・

小山さんは、1962年、27勝11敗、防御率1.66、47イニング連続無失点、270奪三振、13完封(セ・リーグ記録と)なる素晴らしい成績で、阪神タイガースのリーグ優勝に大きく貢献するも、MVP(最優秀選手)に選ばれたのは、小山さんとともに2本柱として活躍した、後輩の村山実さん(25勝14敗、防御率1.20、265奪三振)だったそうで、

この選考結果に、村山さんは、

僕は小山さんと思っていたんですが

と、コメントし、

小山さんも、この知らせを聞いて、祝勝会にも出席せずに帰ってしまったことから、小山さんは、選考結果に不満を抱いていると噂されたのですが、

小山さんは、10月7日から再開した練習では元気な顔を見せ、

ここまで来たんだから村山と力を合わせて日本シリーズもいただかないとね

と、笑顔で語ったそうです。

村山実に握手を求め祝福していた

また、小山さんは、ロッカールームで、村山さんと二人きりになった際にも、さっと握手を求め、

ムラ、おめでとう。よかったな。お前が選ばれてよかったんや

と、祝福したそうで、

村山さんは、実のところ、小山さんの気持ちを思って辛く感じていたそうですが、この言葉に救われたのだそうです。

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MVPは記者たちの投票で必ずしも野球の成績・実績だけで決められていなかった

ちなみに、小山さんは、阪神入団2年目の1954年からの9年間で、8回に及ぶ二桁勝利(20勝以上4回を含む)を記録しており、エースとしてチームに多大な貢献をしていたのですが、

村山さんのチーム貢献は、ルーキーイヤーの1959年からの4年間だけで(しかも1960年は8勝止まり)、どう考えても、MVPは小山さんでならなければならなかったのですが、なぜ、村山さんだったのでしょうか。

それには、考えられる理由が3つあるそうです。

まず、一つは、MVPはスポーツ記者投票によるものだったそうですが、記者たちの中で適正なMVPの選定ができる人物は数えるほどしかいなかったという話。

また、大学、プロと常に脚光を浴び続けて来た(いわゆるエリートの)村山さんが、闘志をむきだしにして渾身の力を振り絞って投げる姿(ザトペック投法)は、その恵まれた経歴とは裏腹に、悲壮感やひたむきさを感じさせ、阪神ファンのみならず、巨人ファンにも人気があったという話。

そして、村山さんの方が、より記者たちと親交を結んでおり、記者受けが良かったという話があるそうで、

MVPは、必ずしも、野球の成績や実績のみで決められていた訳ではなかったのでした。

(小山さんは、記者たちにMVPに代わる付け足しの賞として「沢村賞」(当時、沢村賞は、現在の「沢村賞選考委員会」ではなく、記者投票によるものだったそうです)をもらい、セ・リーグからは「優秀功労賞」をもらっています)

「小山正明は日本シリーズの試合中に負けを確信し風呂に入っていた!」に続く

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