1962年、阪神タイガースに入団すると、長い手足をくねらせるようなフォームから、速球と右打者の胸元をえぐるシュートを駆使して、長嶋茂雄選手や王貞治選手らと名勝負を繰り広げ、1964年には、シーズン29勝を記録して外国人初の沢村賞を受賞するなど、通算100勝80敗、防御率2.34という素晴らしい成績を残した、ジーン・バッキー(gene bacque)さん。そんなバッキーさんも、米マイナーリーグ時代は、箸にも棒にもかからなかったといいます。
年齢は?出身は?身長は?本名は?
バッキーさんは、1937年8月12日生まれ、
アメリカ合衆国ルイジアナ州ラファイエット出身、
身長191センチ、
体重91キロ、
学歴は、
サウスウエスタン・ルイジアナ大学卒業(現在はルイジアナ大学ラファイエット校)
ちなみに、本名は、ジーン・マーティン・バッキー(Gene Martin Bacque)で、名字は正しくは「バッケェ」または「バッケ」という発音に近いそうですが、阪神入団の際、藤本定義監督が「そんな化け物みたいな名前はやめとけ」と言ったことから、太平洋戦争前に、職業野球で活躍したバッキー・ハリス選手にあやかり「バッキー」という名で登録されたのだそうです。
曽祖父がフランス人で幼い頃は英語よりもフランス語の方が得意だった
バッキーさんは、ひいおじいちゃんがフランスからアメリカに渡ってきたそうで、フランス系移民の子として、アメリカ・ルイジアナ州で誕生すると、幼い頃は、フランス人のおじいちゃんと一緒に住んでいたことから、フランス語に囲まれて育ったそうです。
また、おじいちゃんは英語がまったく話せなかったことから、バッキーさんも小学校へ上がるまでは、英語よりもフランス語の方が得意だったそうです。
3Aハワイ・アイランダーズの春季キャンプに参加も1Aに降格していた
そんなバッキーさんは、サウスウエスタン・ルイジアナ大学卒業後、1957年、マイナーリーグの2Aナッシュビルでプレーし、1962年には、カリフォルニア・エンゼルス傘下の3Aハワイ・アイランダーズ(現在は消滅)の春季キャンプに参加したそうですが、
同年4月末、1Aのチームに行くよう命じられたそうで(つまり降格で遠回しに解雇)、マイナーリーグはもう6年目で、先が見えていたこともあり、バッキーさんはこの命令を断ったのだそうです。
日系人チーム「ハワイ朝日軍」(ノンプロ)でプレーしつつ日本球界入りを目指していた
こうして、事実上、解雇されたバッキーさんは、日系人チームの「ハワイ朝日軍」(ノンプロ)でプレーしていたそうですが、
そんな中、「ハワイ朝日軍」のオーナーのエンゼル・マエハラ代表がバッキーさんを阪神に売り込むと、阪神の藤本定義監督はシーズン途中だったため、自らバッキーさんを見に行くことができず、
ちょうど、日米大学選手権(法政大学対ミシガン大学)の取材で海外派遣されることになっていた、スポーツニッポンの記者・有本義明さんに、「ハワイにいる投手を見てほしい」と、内々に依頼をしたのだそうです。
「ジーン・バッキーは阪神の入団テストで使い物にならないと言われていた!」に続く