長身から投げ下ろす速球やナックルボールに加え、上手や横手からの変幻自在な投球術を駆使し、3年目の1964年には、29勝9敗(最多勝)、防御率1.89(最優秀防御率)の活躍で、阪神のリーグ優勝に大きく貢献した、ジーン・バッキー(gene bacque)さんは、ハングリー精神と努力の人だったそうですが、そんなバッキーさんのひたむきな姿は阪神ナインの心も掴んでいたといいます。

「ジーン・バッキーは杉下茂の指導で最多勝&最優秀防御率&沢村賞を獲得していた!」からの続き

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渡辺省三、小山正明のピッチングを食い入るように観察して研究していた

バッキーさんが、3年目の1964年、怒涛のように勝ち星を重ねた背景には、ハングリー精神と努力があったそうで、投手コーチの杉下茂さんの指導による、下半身を鍛えるための走り込みはもちろんのこと、ピッチング練習の際には決して手を抜くことはなく、

コントロール抜群の渡辺省三投手や小山正明投手がピッチングを始めると、食い入るような眼差しで両投手に注目し研究していたといいます。

(バッキーさんは、渡辺投手や小山投手について、「これだけコントロールのいいピッチャーは、アメリカにもいない」と言っているのですが、(少々時間はかかったものの)ついには、二人の制球力を支えているコツを盗み取ることに成功したそうです)

バッキーのひたむきさに阪神ナインも親身になっていた

また、そんなバッキーさんの、「日本の野球を学ぼう」「ここで俺は生きていくんだ」という、ひたむきな姿勢は、阪神ナインも心を動かされたそうで、

バッキーさんに教えてあげるのはもちろんのこと、時には、本気で叱り、注意をし、全力でぶつかるなど、まるで自分のことのようにバッキーさんに接していたそうで、

バッキーさんは、

俺は日本で育てられた

と、語っています。

アメリカでは捕ってもらえなかったナックルボールを辻恭彦(ダンプ)捕手は捕球してくれていた

特に、阪神でバッテリーを組んだ辻恭彦(ダンプ)さんは、何度も突き指をしながら、バッキーさんの不規則な変化をするナックルを捕球し、好投を引き出しているのですが、

辻さんは、入団当初のバッキーさんを、

どこに球が行くか分からない。手の長い、クモみたいな投手でした

と、語っています。

(バッキーさんは、アメリカでプレーしていた時、その変則的な投球で四球を多く出していたそうですが、それは、サイドやスリークオーターなどと投げ方が変わるうえ、不規則な変化をするナックルを捕手がしっかりと捕球できなかったからだそうです)

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闘志をむき出しにした投球でON(王貞治&長嶋茂雄)擁する巨人を苦しめていた

また、バッキーさんは、陽気で真面目な性格で、その陽気な笑顔は「バッキースマイル」と呼ばれ、阪神の選手だけではなく、他球団の選手たちにからも親しまれていたそうですが、

一転、マウンドでは闘志をむき出しにした投球で、(特に巨人戦ではいつも以上に勝利への執念を燃やし)ONコンビ(長嶋茂雄選手、王貞治選手)擁する巨人を苦しめたのだそうです。

「ジーン・バッキーは王貞治へ死球と危険球を連発し乱闘事件となっていた!」に続く

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