2000年10月13日、横浜ベイスターズの監督に就任すると、就任会見で、投手陣の強化を急務に挙げるほか、横浜打線の特徴である「マシンガン打線」を批判し、バントの重要性を説いた、森祇晶(もり まさあき)さんは、権藤博前監督の選手の自主性を尊重する野球から、勝敗重視の緻密な野球に転換しようとしたのですが、うまく機能せず、1年目はなんとか3位を保ったものの、2年目は最下位を独走し、シーズン途中の2002年9月25日に契約を1年残して、監督を解任されてしまいます。
「森祇晶は横浜監督就任の際に権藤博の采配を批判していた?」からの続き
横浜ベイスターズ監督1年目は勝敗重視の緻密な野球を推し進め3位をキープ
横浜ベイスターズの監督に就任した森さんは、権藤博前監督の選手の自主性を尊重する(放任)野球を否定して、勝敗重視の緻密な野球を推し進めると、1年目の2001年は、4月、5月の序盤は、主砲・ロバート・ローズ選手が退団したことなどもあり、最下位を独走するも、
自由気ままな野球の象徴のような選手だったという、優勝時のレギュラーだった波留敏夫選手を中日へトレードし、種田仁選手と山田博士投手を獲得するほか、かつて、西武時代に大活躍して優勝に多大な貢献をしてくれた杉山賢人投手を近鉄から獲得するなど、巻き返しをはかると、最終的には、4位の広島に1勝差でなんとか、前年と同じ3位に留まります。
横浜ベイスターズ監督2年目は最下位を独走し監督を解任される
しかし、就任2年目の2002年は、正捕手の谷繁元信選手や、前年のチーム最多勝投手の小宮山悟投手がFA移籍した影響から戦力が低下し、開幕から記録的な低迷を続けると、5月には16年ぶりの13連敗を喫して最下位を独走し、
球団内で森さん続投に反対する声が高まったことから、シーズン途中の2002年9月25日に契約を1年残して解任されたのでした。(表向きは辞任)
ちなみに、森さんは解任翌日の9月26日に記者会見を行った際、
今日限りでユニフォームを脱ぐことになりました。ファンに対して申し訳ない成績で一番それに心痛めています。本当にわずかな期間でしたがお世話になり、ありがとうございました。
と述べるだけで質疑応答は一切行わず、会見は一分ほどで終わっています。
(観客動員も、日本一となった1998年に比べて約32万人減、前年2001年と比べても15万人減と、大幅減となっていました)
弱小球団の監督としてはミスキャストだった?
ところで、横浜の大堀隆球団社長は、後に、
チーム成績を悪くしただけでなく、森さんを傷つけてしまう最悪の結果であった
致命的なミスキャストだった
チーム力は落ち始め、世代交代が急務になっていた。森さんは強いチームを日本一にすることができる監督であって、当時のベイスターズにはミスキャストであった
と、森さんを監督に要請したフロントの失敗だと語っているのですが、
広岡達朗さんも、
敗因は森の選手起用だった。監督として初めての弱小球団で森がやったのは、現役時代を過ごした巨人の野球だった。巨人は優秀な人材が多かったうえに選手たちのプライドが高く、レギュラーの座を目指して必死に努力した。
そして一度手にしたイスを守るために研究と練習を怠らなかった。だから歴代の監督は育てる必要がなく、その時調子のいい選手、力のある選手を使うだけで良かった。
西武の黄金時代は、私が築いた基礎の上で成熟したチームを、試合巧者の森がうまく指揮して完成させた。ところが若くて未熟な横浜では、結果を出せない選手を「お前もダメ、お前もダメ、下でやり直しと次々と二軍に落としたので、一軍に使える選手がいなくなった。
森に未熟な選手を時間かけて育てる根気と熱意があれば。古巣・巨人の監督も務める立派な指導者になるはずだった。
と、語っています。
監督時代の成績
最後に、森さんの監督時代の成績をご紹介します。
と、西武ライオンズの監督時代には、就任期間9年で、リーグ優勝8回、日本一6回と、圧倒的な成績を残しているだけに、横浜ベイスターズ時代の成績(特に2年目)は汚点となってしまっています。
「森祇晶と谷繁元信の確執の原因は?リードが気に入らなかった?」に続く