中学生になると、歌舞伎以外にも、ラジオドラマ、映画、文学座の舞台に出演するほか、父・八代目松本幸四郎さんの新しい試みだった、歌舞伎と文楽(人形浄瑠璃)の合同公演「日向嶋」での稽古で、「義太夫」(浄瑠璃)という新しい芸を学ぶなど、新しい分野にも積極的に臨んでいたという、二代目松本白鸚(まつもと はくおう)さんですが、1956年、石原裕次郎さん主演の映画「太陽の季節」を見ると、一転、この映画に出てくるような、のびのびと自由に生きている同年代の若者に憧れ、歌舞伎を辞めようと思ったことがあったといいます。

「松本白鸚(2代目)は中学時代から映画やラジオドラマにも出演していた!」からの続き

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映画「太陽の季節」で石原裕次郎演じる自由に生きる若者がうらやましくて仕方がなかった

1956年には、石原慎太郎さんが「太陽の季節」で芥川賞を受賞し、同年、映画化され、慎太郎さんの弟の石原裕次郎さんが華々しく映画デビューしているのですが、

(当時、この映画に出てくるような、夏の海辺で無秩序な行動をとる享楽的な若者のことを「太陽族」と言ったそうですが、この言葉に代表されるように、新しい若者文化が台頭してきたのだそうです)

白鸚さんには、この彗星のように登場した石原兄弟がまぶしく見え、自分たち歌舞伎の兄弟も負けてはいられない、と思ったそうですが、それは夢でしかなく、本音を言うと、この映画に出てくる若者のように、何者にも束縛されず、のびのびと羽ばたいている同年代の若者たちがうらやましくて仕方なく思ったのだそうです。

歌舞伎を辞めることを告げると母親はショックを受け言い争いになるも、父親の八代目松本幸四郎は何も言わなかった

そこで、白鸚さんは、お母さんに「もう、歌舞伎は辞める」と言ったそうですが、息子2人を高麗屋(松本幸四郎家)と播磨屋(中村吉右衛門家)の跡継ぎにすることを夢見ていたお母さんはショックを受けたそうで、以来、お母さんとは、毎日、夜中まで言い合いになったそうです。

ただ、お父さんの八代目松本幸四郎さんはというと、いつも、舞台を終えて帰って来てから一言も発せず、黙って白鸚さんとお母さんとの言い争いを聞いていたのだそうです。

父親の八代目松本幸四郎が「車引」の松王丸を演じているのを見て胸が熱くなり、歌舞伎役者の道を歩もうと思い直していた

すると、ある日、歌舞伎座で昼の序幕から大きな声を張り上げ、懸命に「車引」の松王丸を演じているお父さんの姿を見たそうですが、

昨夜も自分のわがままを黙って聞いていたお父さんの姿と、舞台上のお父さんの姿が重なって、胸が熱くなったそうで、もう一度、歌舞伎役者の道を歩もうと思い直したのだそうです。

歌舞伎「双蝶々曲輪日記」での「放駒」の演技で初めて評価されていた

そんな白鸚さんは、1960年には、歌舞伎座初芝居「双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき)」の「角力場(すもうば)」でお父さんの八代目松本幸四郎さん演じる濡髪(ぬれがみ)を相手に放駒(はなれごま)を演じると、演劇評論家の戸板康二さんに、「若い力士の悲しみと憤りが的確に描かれていた」と高く評価されたそうですが、

(一緒に出演していた、大叔父の十七代目中村勘三郎さんにも、「今月はおまえが一番評判がいいな」とほめられたそうです)

実は、白鸚さんは、子役時代が終わり、変声期の頃(12~15歳くらい)になると、「道成寺(どうじょうじ)」の所化(しょけ)や「長兵衛」の子分など、役らしい役がつかず、舞台に出ても、忸怩(じくじ)たる思いの毎日だったそうで、そんな中途半端な時期が続いていただけに、この劇評はうれしく、また、劇評でほめられたのは初めてだったそうで、

自分を俳優として最初に見いだしてくれた人を決して忘れてはいけない

と、思ったのだそうです。

(同じ俳優活動をしている子どもたちにも常に言っているそうです)

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「忠臣蔵」の勘平役も好評を博していた

また、同年3月には、歌舞伎の勉強会である「木の芽会」の第一回公演「忠臣蔵」(文京公会堂)で、五・六段目の勘平を演じたそうですが、大叔父で十七代目中村勘三郎さんが手取り足取り教えてくれたこともあり、これも好評を博したのだそうです。

(※歌舞伎の「忠臣蔵」は、全十一段構成になっているそうで、五段目、六段目というのは、五話、六話という意味のようです)

「松本白鸚(2代目)が高3の時に東宝に移籍させられた理由とは?」に続く

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