十一代目市川團十郎さんのもと、長男として誕生すると、1953年10月、市川夏雄として、歌舞伎座「大徳寺」の三法師公で初舞台を踏んで以来、お家芸の「歌舞伎十八番」内「勧進帳」の弁慶役、「助六」の助六など、スケールが大きく骨太で明るく、おおらかな芸風で親しまれた、十二代目市川團十郎(じゅうにだいめ いちかわ だんじゅうろう)さんですが、公演中に白血病を発症し、8年間の闘病の末、亡くなっています。
年齢は?出身は?本名は?享年は?
十二代目市川團十郎さんは、1946年8月6日生まれ、
東京都の出身、
身長は、170センチ、
体重は、70キロ、
学歴は、
青山学院初等部・中等部・高等部
⇒日本大学藝術学部卒業
本名は、堀越夏雄(ほりこし なつお)、
趣味は、天体観測(少年時代から望遠鏡で天体を観ることが好きだったそうです)、競馬観戦、
ちなみに、十二代目市川團十郎さんは、野球好きだったことから、俳優の御木本伸介さんらとともに「ハンサムズ」という草野球チームを作って活動していたこともあったそうで、ポジションはピッチャーで左利きだったため、「草野球のサウスポーっていうのは得です、めったに打たれませんから」と語っていました。
享年は66歳で、2013年2月3日に亡くなっています。
襲名は?屋号は?
十二代目市川團十郎さんの襲名は以下のように変遷しています。
- 市川夏雄
- 六代目市川新之助
- 十代目市川海老蔵
- 十二代目市川團十郎
また、屋号は、「成田屋」で、
お父さんは、十一代目市川團十郎さん、
お母さんは、堀越千代さん、
妹は、日本舞踊家の初代市川壽紅さん、
妻は、着物デザイナー・コーディネーターの希実子
長男は、十三代目市川團十郎さん、
長女は、日本舞踊家の四代目市川翠扇さん、
と、芸能一家です。
11歳の時に六代目市川新之助を襲名するも中学時代は歌舞伎から離れていた
十二代目市川團十郎さんは、1946年8月6日、江戸歌舞伎の名門・成田屋の十一代目市川團十郎さんのもと、長男として誕生すると、1953年10月、7歳の時には、市川夏雄として、歌舞伎座「大徳寺」の三法師公で初舞台を踏み、1958年5月、11歳の時には、歌舞伎座「風薫鞍馬彩」の牛若丸役で六代目市川新之助を襲名します。
ただ、中学生になると、
生まれた家が役者の家だから役者にならなきゃなんておかしい
という思いから、
舞台や稽古をわずらわしく感じる様になり、学業もあってしばらく舞台から遠ざかっていたそうですが、1962年4月、お父さんが、十一代目團十郎を襲名し、お父さんと共に「助六」に出演した際、自身の芝居のまずさを痛感して一念発起し、ようやく役者になる決心がついたそうです。
父・十一代目市川團十郎が他界後は後ろ盾がない中で努力を重ねていた
しかし、1965年、19歳の時、お父さんが56歳の若さで他界してしまい、まだ、家の芸を伝授されていなかったことから、途方に暮れていると、
叔父の初代松本白鸚さんと二代目尾上松緑さんが手を差し伸べてくれるほか、六代目中村歌右衛門さんが相手役に指名してくれるなど、先輩たちに助けられたそうで、
辛抱強く努力して、欠点を1つ1つ克服すると、その結果、先輩たちからも「あの子は教え甲斐がある、真剣に人の言うことを聞く」と、信頼を得るようになっていったのだそうです。
ちなみに、十二代目團十郎さんは、お父さんが他界された時のことを、
何もかもがまっくらで、これからオレは役者としてやっていけるだろうかって、とても不安でした
と、語っています。
周囲の期待に応える形で十二代目市川團十郎を襲名
こうして、叔父の松本白鸚さんや尾上松緑さんの指導を受けながら舞台に打ち込んだ十二代目市川團十郎(当時は六代目市川新之助)さんは、1969年11月、23歳の時には、歌舞伎座「助六由縁江戸桜」の助六、「勧進帳」の冨樫役などで、十代目市川海老蔵を襲名。
すると、江戸歌舞伎の総本山である市川家を継承する重圧、さらには、30代になると、團十郎を襲名して歌舞伎界の柱となることを期待されるようになったそうですが、「自分にはそれだけの力がない」との思いが続いたそうです。
それでも、1985年4月、38歳の時には、そんな思いを振り切り、歌舞伎座の3ヶ月に渡る襲名披露興行「勧進帳」の弁慶役、「助六」の助六役などで、ついに、十二代目市川團十郎を襲名すると、力強く芸を高めていき、小手先や小細工の芸とは無縁の、天衣無縫とも言えるスケールの大きな芸風を確立。
そこに、もともとの人柄がにじみ出るような自然体の愛嬌が備わり、荒事、世話物、義太夫狂言、新歌舞伎と多彩な役を演じ分け、文字通り、歌舞伎界を支える大看板となっていったのでした。
公演中に白血病を発病し復帰と再発を繰り返した末に他界
しかし、2004年5月、息子の十三代目市川團十郎(当時は十一代目海老蔵)さんの「十一代目海老蔵襲名興行」の公演中に白血病を発病すると、治療に専念し、同年10月にはパリ公演で復帰するも、2005年6月には白血病が再発し、再度休演。
それでも、その後、壮絶な闘病生活を送って2006年5月には執念の復帰を果たすと、2007年には世界最高峰の舞台の一つである、パリ・オペラ座(ガルニエ)での歌舞伎公演を実現させ、息子の市川海老蔵(現・十三代目市川團十郎)さんと共演した「勧進帳」では、冨樫役と弁慶役の2役を熱演し、「ブラボー!」と、拍手喝采を浴びています。
(シャガールの絵が描かれた天井に「成田屋!」の声が響き渡ったそうです)
また、治療を受けながら、2010年10月には、三升屋白治(みますや はくじ)のペンネームで書いた「黒谷」(「一谷嫩軍記」の「熊谷陣屋」の後日譚)を上演するほか、同年には、著書「團十郎復活 六十兆の細胞に生かされて」を出版するなど、活動を続けていたのですが、
2013年2月3日、66歳で、肺炎のため、他界されています。