負傷離脱した掛布雅之選手に代わり、1980年4月22日、ついに、8番・サードとして、プロ初のスタメン入りを果たした、岡田彰布(おかだ あきのぶ)さんは、以降、レギュラーとして108試合に出場すると、規定打席にも到達し、打率2割9分、18本塁打、54打点の活躍で、新人王に輝きます。

「岡田彰布はルーキー時スタメン起用を巡って大騒動となっていた!」からの続き

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打率2割9分、18本塁打、54打点の活躍で、新人王を獲得

岡田さんは、1980年、ルーキーの年は、サードのほかにも、セカンド、ファーストなどを守り、108試合に出場すると(当初は7、8番も、終盤は5番打者として出場)、規定打席にも到達し、打率2割9分、18本塁打、54打点の活躍で、新人王に輝いています。

(不動のサードだった掛布雅之さんが故障離脱した穴を埋めるサードが60試合と一番多かったそうです)

また、8月19日の広島戦では、山根和夫投手の内角カーブをとらえ、レフトスタンドに13号ホームランを放っているのですが、これは、セ・リーグ創設31年で到達した通算2万号本塁打となっており、

岡田さんは、

ストライクなら振ろうと思っていた

たまたまの巡り合わせだけど、僕の名前が球史に残るんだから幸せです

と、初々しい笑顔で語っています。

プロ入り2年目から正二塁手となり阪神の中心選手へと成長

そんな岡田さんは、プロ2年目の1981年には、シーズンを通してセカンドに固定されて、打順も5番がメインとなり、初の全130試合出場を果たすと、20本塁打を記録。

プロ3年目の1982年も、打率3割0分(リーグ9位)を記録し、名実ともに阪神の中心選手へと成長します。

プロ4年目の1983年には右大腿二頭筋を断裂する大ケガ

そして、プロ4年目の1983年には、開幕から79試合で18本塁打を記録し、本塁打王争いに加わっていたのですが・・・

7月10日の広島戦で右大腿二頭筋を断裂し、残りのシーズンを棒に振ってしまいます。

(以後、岡田さんは、脚部の負傷に悩まされることになったそうで、岡田さんが離脱したセカンドにはショートだった真弓明信選手が入り、空いたショートには平田勝男選手が入ったそうです)

1984年の春季キャンプでは快調ぶりをアピール

それでも、翌1984年の安芸での春季キャンプでは、6連発を含む61本塁打の猛打ぶりをみせ、

マウイより寒いここ(安芸) で、フルスイングしても(故障した)足の心配はなかった。最大の収穫です

と、快調ぶりをアピールし、

プロ入り5年目のこのシーズンは、打率2割9分7厘、本塁打15本、51打点という成績を残したのでした。

(岡田さんは、1984年後半は、足を痛めた影響から、主にライトで起用されていました)

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1985年は5番セカンドで活躍

そして、1985年、吉田義男監督となると、真弓明信選手と入れ替わって再びセカンドに戻り、3番・ランディ・バース選手、4番・掛布雅之選手に続き、5番打者として活躍。

同年4月16日の巨人1回戦では、1対2のビハインドで迎えた4回裏二死、岡田さんは、四球で出塁すると、佐野仙好選手が放った平凡なフライを巨人の遊撃手・河埜和正選手が落球する間に、一塁から一気に本塁まで生還し、これをきっかけに、この回、阪神は大量7点を奪って逆転しており、阪神の10対2の勝利に大きく貢献しています。

「岡田彰布はバース・掛布に続きバックスクリーン3連発を放っていた!」に続く

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