中学時代は、お父さんが野球部の監督だったことから、特に厳しくされていたにもかかわらず、親の七光のように思われていたという、掛布雅之(かけふ まさゆき)さんは、高校は、お父さんから自立したいとの思いで、地元を離れ、習志野高校に進学すると、2年生の時には、4番ショートとして、甲子園出場に大きく貢献します。
「掛布雅之は中学時代に父親が野球部監督で猛烈にしごかれていた!」からの続き
高校2年生の時に甲子園出場するも1回戦で敗退していた
習志野高校野球部に入部した掛布さんは、1972年、高校2年生の時には、4番・ショートとして、千葉県予選を勝ち抜き、東関東大会決勝の千葉県立銚子商業高等学校戦では、根本隆投手から先制打を放つなどの活躍で、銚子商を2対0で下し、(習志野高校としては)5年ぶり3回目の甲子園出場を決めたそうで、
当時から人には負けない練習をした自信はあったし、習志野という学校だったから、しっかりと戦えば3年間のうちに甲子園に行けるだろう、とは思っていた。
でも、やっぱり現実のこととなると、うれしかった。オヤジも喜んだし、3年生の先輩もうれしそうだった。もちろん、監督や野球部関係者、学校、地元の方・・・。甲子園の影響力ってすごいと思ったね。
と、語っています。
試合に負けたことよりもチームに貢献できなかった4番の責任を痛感して涙を流していた
ただ、8月13日、甲子園1回戦の東洋大姫路(兵庫)戦では、(後に阪神でチームメートになる)山川猛選手に満塁本塁打を打たれて3対5で敗退してしまい、4番で出場した掛布さんは、4打数1安打で、勝利に貢献することができなかったそうで、
試合終了後、三塁側のアルプス席前に整列して応援団に向かって深々と頭を下げた際、怖くて仕方がなかった3年生の先輩が人目をはばかることなく泣き崩れていた姿を見て、掛布さんも負けたことはもちろん悔しかったそうですが、打てなかった4番の責任を痛感して泣いたそうです。
高校3年生の夏の選手権千葉大会では木更津中央高等学校に敗退し甲子園には出場できなかった
その後、掛布さんは、1973年、高校3年生の夏の選手権千葉大会では、エースの古屋英夫投手を擁する木更津中央高等学校(現・木更津総合高等学校)と準々決勝で対戦したそうですが、
延長11回、1対2xでサヨナラ負けを喫したそうで、結局、甲子園には、高2の夏の1度しか出場できなかったのだそうです。
「掛布雅之は高校時代は阿部慎之助の父とクリーンアップを組んでいた!」に続く
習志野高校時代の掛布さん。