1975年、「キャンディーズ」として、5枚目のシングル「年下の男の子」が大ヒットすると、その後も立て続けにヒットを連発し、国民的アイドルの座を不動のものにした、藤村美樹(ふじむら みき)さんですが、実は、「年下の男の子」が大ヒットした頃、アイドルでありながら、ライブ活動を中心に活動していたといいます。
「藤村美樹は若い頃キャンディーズで「年下の男の子」が大ヒットしていた!」からの続き
ロックバンド「MMP」を専属バックにしライブを重視した活動を展開していた
キャンディーズは、「年下の男の子」で人気を博した頃、大里洋吉氏(アミューズの創業者で会長)がマネージャーになったそうですが、大里氏は、それまでの歌謡曲的なビッグバンド編成をやめ、専属バックとして、ロックバンド「MMP」(ミュージック・メイツ・プレイヤーズ)を起用し、ライブを重視した活動を展開したそうで、
(女性アイドルとロックバンドの編成は今でこそ珍しくありませんが、当時は画期的な試みだったそうです)
清楚な「キャンディーズ」に対し、黒づくめの「MMP」は、当初、観客から罵声を浴びせられたり、帰れコールを連発されたこともあったそうです。
(「MMP」は、「ザ・ワイルドワンズ」のチャッピーこと渡辺茂樹さん、新田一郎さんのほか、後に、ジャズ、フュージョン、ブラス・ロックバンド「スペクトラム」として活躍するミュージシャンたちによって構成されていたそうです)
歌謡曲に見向きもしなかった若いファンと深い絆を結ぶようになっていった
そんなキャンディーズは、1975年10月19日の蔵前国技館での「10,000人カーニバル」以降、アイドルでありながら、年間100本を超すライブをこなしたそうですが、「MMP」の激しいロックサウンドにも負けない、歌唱力を披露したほか、
MCや各メンバーのソロコーナーでは、自分たちで作曲をするほか、洋楽のカバーも定番となっていき、音楽性の変化と共にアーティスト色を強めていくと、これまで、歌謡曲に見向きもしなかった若いファンとの間に、アーティストとファンの垣根を越えた深い絆を結ぶようになっていったそうです。
伊東四朗や小松政夫とともにコントもこなしていた
また、その一方で、キャンディーズは、1976年10月からスタートしたバラエティ番組「みごろ!たべごろ!笑いごろ!!」に出演し、伊東四朗さんや小松政夫さんとともにコントを繰り広げているのですが、
舞台で芸を磨いてきた伊東さんや小松さんなどベテランたちに囲まれながらも、アドリブやリアクションもやってのけると、コントの才能も開花していったそうで、作家が書いていないギャグを生み出すまでになったのでした。
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