プロ4年目の1972年7月8日には、10打席連続安打の日本記録まであと1つというところまで迫まるも、残念ながらセ・リーグ記録の9打席連続安打で止まってしまい、悔しい思いをしたという、山本浩二(やまもと こうじ)さんですが、プロ5年目の1973年は、念願だった球宴(オールスター・ゲーム)に初出場を果たすと、6年目の1974年には、打撃3部門共に自己ベストを更新。そして、7年目の1975年シーズンは、ジョー・ルーツ新監督のメジャー式の指導がハマったといいます。
「山本浩二は9打席連続安打のセ・リーグ記録を樹立していた!」からの続き
山本浩二は入団5年目の1973年に球宴初出場も守備&打撃共に活躍できなかった
山本さんは、プロ入り5年目の1973年には、監督推薦で球宴(オールスター・ゲーム)に初出場(7番・センター)しているのですが、
第1戦(神宮球場)では、4回裏、南海(現・ソフトバンク)の野村克也選手の意外にも伸びた打球を下がりながら両手で捕りに行くと、バンザイしてしまうなど、自信があった守備でミスをするほか、
打撃の方も、第1戦では、最初の打席で三振して次の打席で代打を送られ、第2戦(大阪球場)では出番がなく、第3戦(平和台球場)では、代打で出場も、左飛に終わってしまい、残念な結果に終わってしまいます。
(ただ、コーチを務めていた中日の与那嶺要(ウォーリー与那嶺)さんに、「なあ、コージ、外野手はね、片手で捕るのと30センチは違う。あの打球は片手で捕らなきゃいかんよ」と、アドバイスしてもらったそうで、ありがたかったそうです)
山本浩二は入団6年目の1974年に自己ベストを更新していた
そんな山本さんは、プロ入り6年目の1974年の球宴(オールスター・ゲーム)は、初めてファン投票で選ばれているのですが、3試合とも先発出場するも、8打数1安打と活躍はできませんでした。
ただ、シーズンでの成績は、127試合に出場して、打率2割7分5厘、28本塁打、74打点と、3部門とも自己ベストをマークします。
(ちなみに、山本さんは、この年(1974年)のオフ、幼稚園からの親友・内田美昭さんに改名を勧められ、それで運が開けるならと、本名の「山本浩司」から「山本浩二」に改名したそうです)
山本浩二はジョー・ルーツ新監督のメジャー流の教えが合っていると感じていた
すると、翌1975年シーズン(プロ入り7年目)は、就任したばかりのジョー・ルーツ監督が強烈なリーダーシップを発揮して広島ナインの負け犬根性を一掃し、チャレンジする意識を植え付けられたそうですが、
(やらされる練習からやる練習へと意識も変わり、自主性を身につける意味でもプラスになったそうです)
メジャー式の、「7スイングで7本目を打ったら走る」を6回する練習は、打つ本数が少ないことから、一振り一振りに集中しなければならず、練習での集中の仕方が為になったほか、
ゲームでは「スイング・ハード(強く振れ)」と言われたそうで、「1球で仕留める」ことを目標としていた山本さんにとって、ジョー・ルーツ新監督の教えが合っていると感じたそうです。
(ルーツ監督は、広島カープが1972年に米アリゾナ州トゥーソンで春季キャンプを張った際に面倒を見てくれたインディアンスのコーチで、1974年に打撃コーチとしてカープに入団すると、この年のオフ、前監督の森永勝也さんに代わって監督に昇格したそうですが、山本さんは、1970年秋にアリゾナ教育リーグに参加するなど、アメリカ式の練習には慣れていたことから、そんなルーツ監督のアメリカ式の練習にも戸惑いはなかったのだそうです)
ジョー・ルーツ監督は広島カープに赤いヘルメットを持ち込んでいた
また、ジョー・ルーツ監督は、メジャー式の練習だけではなく、日本球界にそれまでなかった「情熱の赤」を広島カープに持ち込み、帽子とヘルメットの色を紺から赤に変えたそうで、
(ルーツ監督は、カープのユニフォームそのものを赤色にしたかったそうですが、経費の関係で帽子とヘルメットだけになったのだそうです)
山本さんは、最初はこの赤色に戸惑ったそうですが、勝ち始めると「赤ヘル」が売り物になっていき、やがて、全国に「赤ヘル旋風」が吹き荒れることになったのでした。
ジョー・ルーツ監督はボールの判定に激怒して退場を言い渡されるも・・・
しかし、その頃には、すでにルーツ監督は辞任していたといいます。
実は、1975年4月27日、甲子園球場での阪神とのダブルヘッダー第1試合でのこと、0対0で迎えた8回二死一、三塁の場面で、佐伯和司投手が阪神の掛布雅之選手にフルカウントから外角際どいカーブを投じると、判定はボール。
すると、ベンチからジョー・ルーツ監督が飛び出し、球審の松下充男さんに激しく詰め寄ったそうですが、その時、割って入ろうとした一塁塁審の竹元勝男さんの手が肩に触れた瞬間、ルーツ監督は左ひじで竹元さんの胸を突き上げたそうで、即、退場処分となってしまったのでした。
審判を小突くルーツ監督。
ジョー・ルーツ監督はフロントのグラウンド介入を最大の屈辱と感じ、広島カープを辞任していた
それでも納得がいかないルーツ監督は退場を拒否して抗議を継続。
すると、10分後には、審判団がカープ球団に事態収捨を要請したそうで、重松良典代表が背広姿でグラウンドに足を踏み入れ、ルーツ監督の説得にかかったのですが・・・
ルーツ監督は、その場は引き下がったものの、フロントのグラウンド介入を最大の屈辱と感じ、第1試合終了後、選手を集め、
私は辞める。しかし、このチームは最後まであきらめなければ優勝できる。優勝したらまたみんなに会える
と、言い残して球場を後にしたそうで、
わずか15試合(6勝8敗1分け)で赤ヘルを残して監督を辞任したのでした。
(この第1試合はそのまま引き分けで終わったそうです)
「山本浩二が若い頃は衣笠祥雄と赤ヘル旋風を巻き起こしていた!」に続く
ジョー・ルーツ監督の話す山本浩二さん。