1962年、「俳優養成所」に入所すると、養成所修了後は、「文学座」を経て、1966年には、「劇団 自由劇場」(後に「オンシアター自由劇場」に改称)の旗揚げに参加し、1979年には、「上海バンスキング」で主演を務めブレイクを果たした、吉田日出子(よしだ ひでこ)さん。
今回は、そんな吉田日出子さんの若い頃から現在までの活躍や経歴を、生い立ちを交えて時系列でまとめてみました。
吉田日出子のプロフィール
吉田日出子さんは、1944年1月7日生まれ、
石川県金沢市の出身(東京都北区育ち)、
身長152センチ、
血液型はAB型、
学歴は、
東京都立北園高等学校卒業、
ちなみに、本名は、「平松日出子」です。
吉田日出子は誕生した1ヶ月後に父親を亡くしていた
吉田日出子さんは、1944年1月7日、彫刻家を目指していたお父さんの平松豊彦さんと医師のお母さんのもと、お父さんの駐屯地だった石川県金沢市で、3人姉妹の次女として誕生したそうです。
ちなみに、吉田日出子さんのお父さんの豊彦さんは、1928年に、東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻科を卒業すると、その後、フランスに留学し、彫刻家を目指していたそうですが、
徴兵を受け、石川県金沢市に駐屯すると、そこへ、妊娠中で、臨月近かった奥さんが来て、吉田日出子さんが生まれたのだそうです
しかし、お父さんは、吉田日出子さんが生後1ヶ月の時に出征すると、この年、フィリピンのレイテ島で戦死してしまったそうです。
吉田日出子はカトリック系の私立の小学校に入学するも小学4年生で公立小学校に転校していた
吉田日出子さんは、お父さんの出征後は、お母さんに連れられて新潟県に疎開していたそうですが、終戦後の1947年、3歳の時には、お母さんに連れられて東京に戻ったそうで、
その後、カトリック系の私立の小学校に入学したそうですが、自身の希望で小学4年生の時には、公立小学校に転校したそうです。
ちなみに、医師だったお母さんは、東京に戻った後は、病院勤務を経て、吉田日出子さんが中学生の時には、北区赤羽で内科小児科医を開業したそうで、その後、再婚し、吉田日出子さんの妹を出産したそうです。
(お姉さんは精神科医、妹さんは建築デザイナーになっているそうです)
吉田日出子は高校時代は演劇部に所属するも演劇論に馴染めず1年で退部していた
そんな吉田日出子さんは、中学時代には、家庭教師をつけられて受験勉強したそうで、学校見学をして校舎が気に入った東京都立北園高等学校に進学すると、高校時代は演劇部に所属したそうですが、
演劇部では、演劇論に馴染めず、1年で退部したそうです。
吉田日出子は高校卒業後の18歳の時に俳優座養成所のオーディションを受けて合格
ただ、高校3年生の時には、お姉さんに誘われて観た「劇団俳優座」の舞台に感銘を受けたそうで、
高校卒業後の1962年、18歳の時、俳優座養成所のオーディションを受けると、見事合格し、第14期生として俳優座養成所に入所したそうです。
(同期には、串田和美さん、佐藤信さん、清水紘治さん、樋浦勉さん、河内美子(現嵯峨美子)さん、辻萬長さん、原田芳雄さんがいたそうです)
吉田日出子は21歳の時には同期の串田和美と清水紘治と共に「文学座」に研究生として入団するも舞台に1本出演しただけで退団
とはいえ、吉田日出子さんは、俳優座養成所時代は遊んでばかりいて、授業にはあまり出ていなかったそうで、
俳優座養成所を修了した1965年3月には、同期の串田和美さんと清水紘治さんと共に「文学座」に研究生として入団。
ただ、ここでも、舞台に1本出演しただけで退団したそうです。
吉田日出子は22歳の時に俳優座養成所で同期だった佐藤信に誘われ「劇団 自由劇場」を旗揚げ
そんな中、吉田日出子さんは、1966年、22歳の時には、俳優座養成所で同期だった佐藤信さんに誘われ、清水紘治さん、串田和美さん、地井武男さん、村井國夫さんら14名ととともに、「劇団 自由劇場」を旗揚げするのですが、1972年、28歳頃には、「自由劇場」が分裂。
また、吉田日出子さんは、この頃、女優としての才能に疑問を感じ、花屋でアルバイトをしていた時期もあったそうですが、
1975年4月には、串田和美さんとともに、「自由劇場」を「オンシアター自由劇場」に改名し、女優としての活動を再開すると、以降、看板女優として活躍したのでした。
ちなみに、串田和美さんは、その時のことを、
(「自由劇場」が分裂し、創立メンバーと別れた後)まずは舞台裏からステージ上の様子がわかるように、ひとりで壁に穴を開けていた。
そしたらしばらく花屋でバイトをしていたデコ(吉田日出子の愛称)がひょっこり現れて、
「自分はいっそ芝居をやめようとしていたけど、サム(若い頃の串田の愛称)はたったひとりで劇場でセメントを固めながら、次の芝居をするための準備をしていた。いつできるかもわからないのに。本当にひとりでやろうとしていた。ああ、この人こんなに芝居が好きなんだなあって思ったの。こんな人が一緒にやろうっていってくれるんだから、いらないっていわれるまでここにいようって思った」らしい。
デコはそれから看板女優として欠かせない存在になっていった。
と、語っています。
(「オンシアター自由劇場」には、その後、笹野高史さん、柄本明さん、イッセー尾形さん、下條アトムさんらが加入するほか、途中で研究生も取るようになると、1期生には、岩松了さん、高田純次さん、ベンガルさん、綾田俊樹さん、2期生には、大森博史さん、真那胡敬二さん、4期生には小日向文世さん、余貴美子さんら、大勢加入しています)
「劇団 自由劇場」創立メンバー。前列右から、串田和美さん、吉田日出子さん、2列目右が佐藤信さん、5人目が地井武男さん、後列右が斎藤憐さん、左が村井國夫さん。
吉田日出子は35歳の時に「上海バンスキング」での主演でブレイク
そんな吉田日出子さんは、1979年、35歳の時、舞台「上海バンスキング」で、主人公・正岡まどか役を演じると、再演を重ねる大ヒットを記録。
小劇場としては、異例のロングラン公演となり、吉田日出子さんも一躍ブレイクを果たします。
ちなみに、吉田日出子さんは、劇中、歌を披露しているのですが、実は、歌は未経験だったそうで、しかも、バックバンドも、プロのミュージシャンではなく、劇団員で構成されたものだったそうですが、大きな反響を呼び、
吉田日出子さんは、これをきっかけに、劇中歌を披露するコンサートを開いたり、アルバムを数枚リリースするなど、歌手としても注目されたのでした。
LP「上海バンスキングⅡ」のジャケットより。右から3人目が吉田日出子さん。その左隣が串田和美さんと小日向文世さん。
吉田日出子は45歳の時に「日本アカデミー賞 優秀助演女優賞」を受賞
その後も、吉田日出子さんは、独特の歌声と個性派女優として高く評価されると、
1986年(42歳)の時には、「ドタ靴はいた青空ブギー」で「菊田一夫演劇賞」
1989年(45歳)の時には、「社葬」で「第14回 報知映画賞最優秀助演女優賞」「第13回 日本アカデミー賞優秀助演女優賞」
など、栄えある賞を受賞しています。
吉田日出子の現在は高次脳機能障害で闘病中?
そんな吉田日出子さんは、1996年、52歳の時に、「オンシアター自由劇場」が解散した後は、舞台を中心に、テレビドラマや映画にも出演していたのですが、
2014年11月(70歳)には、著書「私の記憶が消えないうちに」の中で、2007年(63歳)に高次脳機能障害と診断されたことを公表しています。
なお、吉田日出子さんは、2011年(67歳)からは仕事をしていないようで、現在も闘病中なのかもしれません。
「吉田日出子の夫は?結婚してる?高橋克典や小日向文世や岡林信康と交際していた!」に続く
1979年、主演舞台「上海バンスキング」で一躍ブレイクを果たすと、以降、個性派女優として舞台を中心に活躍した、吉田日出子(よしだ ひでこ)さん。 そんな吉田日出子さんのプライベートはどのようなものだったのでしょうか。 今 …