1952年、高松一高から西鉄ライオンズに入団すると、1年目は新人王、2年目1953年には本塁打王と打点王の2冠王、3年目1954年には本塁打王、4年目1955年には本塁打王と首位打者の2冠王、5年目1956年には本塁打王と打点王の2冠王、6年目1957年には打点王、7年目1958年には本塁打王と首位打者の2冠王という、凄まじい活躍で、西鉄黄金時代を支えた、中西太(なかにし ふとし)さん。

そんな中西太さんは、小学生の時に担任の先生に野球を教えてもらうと、すっかり夢中になり、その後、少年野球チームに入ると、豪打を振るい、

中学進学後は、野球部に入部すると、すぐに頭角を現し、中学3年生の時には、(中西太さんが進学する予定の(新制)高松一高が初めてセンバツ出場を決めたことから)まだ高校入学前にかかわらず、春の甲子園に出場したといいます。

今回は、そんな中西太さんの、生い立ち(幼少期から中学時代まで)をご紹介します。

中西太

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中西太のプロフィール

中西さんは、1933年4月11日生まれ、
香川県高松市の出身、

身長174センチ、
体重93キロ、

学歴は、
松島小学校
⇒高松一中(後に高松一高)
※高松一中は旧制中学校で1948年に学制改革により高松一高となっています

ちなみに、「中西太」は本名で、愛称は「太っさん」「太」、

命日は2023年5月11日で、90歳で他界されています。

中西太の幼い頃は野菜の行商をする母親に女手一つで育てられていた

中西太さんは、野菜の行商で生計を立てていた、お母さんの小浪さんのもと誕生し、母子家庭で生活は貧しかったそうで、

そんな中、お母さんが工夫して作ってくれた、手打ちうどん、豆腐、あげ、野菜で調理したおかず等がご馳走だったそうです。

中西太は12歳の時に空襲に遭うも奇跡的に生き延びていた

また、中西太さんは、太平洋戦争の戦局が厳しくなった1945年7月3日、12歳の時には、空襲から避難するため、一旦は、家の前にあった防空壕(ごう)に逃げ込むも、

近くで爆弾が落ちる音が聞こえて怖くなり、防空壕を出て、道をゆく大勢の大人たちの列についてゾロゾロと歩いて行き、しばらくして、家に戻ると、かろうじて家は残っていたものの、防空壕は焼失していたことがあったといいます。

(この時、お母さんは不在で、中西太さんは一人で留守番をしていたそうです)

中西太は12歳の時に野球(三角ベース)を始めていた

中西太さんは、終戦後、小学校の担任の先生に野球(三角ベース)を教えてもらうと、たちまち、夢中になったそうで、

(※三角ベースとは、二塁がなく、本塁・一塁・三塁の三角形の簡易な野球で、物がない時代だったため、ボールもグラブもバットもなく、スポンジ製の球を棒切れで打ち、素手で捕球していたそうです)

やがて、「オール今橋」という少年野球チームに所属すると、豪打を振るったそうです。

中西太は中学進学後は野球部に入部するも新入生は実習練習をさせてもらえなかった

そして、中西太さんは、中学進学後は野球部に入部したそうですが・・・

新入生は実習練習をさせてもらえず、柔軟体操、キャッチボール、素振りぐらいしかさせてもらえなかったほか、予科練帰りの先輩もいて、練習はただただ厳しく、そのうえ、鉄拳制裁、説教などは当たり前に行われていたそうです。

(※予科練とは、「海軍飛行予科練習生」の略で、旧日本海軍に置かれていた、航空機搭乗員を養成するための教育制度のひとつで、14〜15歳の少年に約3年の基礎教育が施されていたそうです)

それでも、中西太さんは、もともと、軍人に憧れていたこともあり、そんな心身の鍛錬が上達の道だと信じて疑わず、黙々と練習に励んだのだそうです。

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中西太は中学3年生の時に3番・サードで春の高校野球(選抜甲子園)に出場していた

そんな中西太さんは、身のこなしが俊敏で、中学1年生の時から頭角を現したそうですが、1948年春、中学3年生の時、ようやく下積みが終わると、同年秋には、レギュラー(正三塁手)に起用されたそうです。

そして、中西太さんが進学する予定の(新制)高松一高が初めてセンバツ出場を決めたことから、中西太さんは、高校に入学する前にもかかわらず、(中学3年生にして)高松一高の3番・サードで春の甲子園に出場したのだそうです。

(ただ、残念ながら、準々決勝の福岡県立小倉高等学校戦で0対4と完封負けを喫したそうです)

「【画像】中西太の若い頃が凄い!高校からプロ野球現役時代までの経歴を時系列まとめ!」に続く

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