徳島商業高等学校3年生の夏の甲子園大会では、決勝まで全6戦を一人で投げ、合計83奪三振の大会記録を樹立すると、1959年には、中日ドラゴンズに入団し、1969年に引退するまでの11年間で通算77勝を挙げる活躍をした、板東英二(ばんどう えいじ)さん。
そんな板東英二さんは、幼い頃は、命からがら満洲から日本に引き揚げると、極貧生活を余儀なくされたそうですが、小学3年生の時に野球を始め、中学では2年生から野球部に入部すると、地肩が強かったことから、たちまち頭角を現し、中学3年生の時には、エースとして活躍したといいます。
今回は、そんな板東英二さんの、生い立ち(幼少期から中学時代まで)をご紹介します。
板東英二のプロフィール
板東さんは、1940年4月5日生まれ(実際は3月31日生まれ)、
満洲国東安省虎林県(現・中国黒竜江省虎林市)生まれ、
徳島県板野郡板東町(現・鳴門市)の出身、
身長169センチ、
体重70キロ、
血液型はO型、
学歴は、
神戸市立妙法寺小学校
⇒徳島県板東町にあった小学校(転校)
⇒板東中学校
⇒徳島県立徳島商業高等学校卒業
趣味は、サウナ、ゴルフ、
特技は、縄作り、
ちなみに、「板東英二」は本名で、愛称は「板ちゃん(ばんちゃん)」です。
板東英二は幼い頃は命からがら満洲から日本へ引き揚げていた
板東英二さんは、戦時中の1940年に、満洲国の間島省(現・吉林省延辺朝鮮族自治州)図們市(ともんし)で高級料理店を経営する両親のもと、4人兄弟(姉2人、兄1人)の末っ子として、虎林という町で誕生すると、幼い頃は、裕福な家庭で何不自由なく育ったそうです。
しかし、1945年8月初め、第二次世界大戦終結直前にソ連軍が満洲に侵攻し、満洲国が崩壊したことから、終戦後(板東さん6歳)は、お母さんに背負われて、3人の兄姉とともに、命からがら満洲から博多に引き揚げてきたそうです。
徳島商業高校のエースとして夏の甲子園で大会通算83奪三振を記録し、中日ドラゴンズに入団すると、11年間で77勝する活躍をし、プロ野球引退後も、「マジカル頭脳パワー!!」の司会や、「世界・ふしぎ発見!」「クイズ!ヘキサゴン …
板東英二が幼い頃は極貧生活を送っていた
板東英二さんは、満洲を出発してから1年半後に、ようやく博多に到着したそうで、お母さんの実家がある神戸市宮ノ下に移り住んだそうですが、復員したお父さんが生まれ故郷の徳島の引き揚げ者収容所にいることが分かり、徳島県板野郡板東町に引っ越ししたそうです。
その後、引き揚げ者用住宅で家族6人での暮らしが始まったそうですが、お父さんの仕事は安定せず、極貧生活を余儀なくされたそうです。
板東英二は小3で野球を始め中学3年生の時は野球部のエースとして活躍していた
それでも、板東英二さんは、小学校3年生の時には、アメリカからの救援物資の中に入っていた中古のグローブを見つけて野球を始めると、
中学進学後は、家庭が貧しかったことで、グラブやスパイクを買うことができず、野球部に入ることができなかったそうですが、
中学2年生の時には、部室に余っているグローブを貸してもらえることになり、野球部に入部することができたのだそうです。
すると、板東英二さんは、地肩が強かったことから、たちまち、頭角を現したそうで、中学3年生の時には、野球部のエースとなり、61連勝を記録したといいます。
終戦後、満洲から命からがら帰国したという、板東英二(ばんどう えいじ)さんは、お父さんの仕事が安定せず、3度の食事も事欠く極貧生活を余儀なくされたそうですが、そんな中、野球を始めると、中学生の時には頭角を現すようになった …
「【画像】板東英二の若い頃が凄い!高校からプロ野球現役時代までの経歴を時系列まとめ!」に続く
高校時代、1試合25奪三振と通算83奪三振という不滅の記録を打ち立てると、1959年から1969年までの中日ドラゴンズでの現役時代11年間で通算77勝を挙げ、あの、世界の本塁打王・王貞治さんから一本もホームランを打たれな …