1959年に日本テレビにアナウンサーとして入社すると、新人時代は、童謡歌手だった妹の古賀さと子さんと共に、「平凡」創刊号のグラビアに紹介されるなど、メディアに大きく取り上げられ、注目された、田原節子(たはら せつこ)さん。

そんな田原節子さんは、幼い頃から、弁護士になりたかったという強いお母さんに憧れ、自身も職業を持とうと、女性でも卒業後に就職できるという理由で早稲田大学に進学したそうですが、

当時、女性の就職先は、新聞社、放送局(アナウンサー)、出版社(それも「主婦の友」のみ)しかなかったそうで、しかたなく、日本テレビのアナウンサーの入社試験を受けたといいます。

今回は、田原節子さんの、生い立ち(幼少期から大学時代まで)をご紹介します。

田原節子

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田原節子のプロフィール

田原節子さんは、1936年生まれ、
東京都の出身、

学歴は、
早稲田大学文学部卒業、

ちなみに、「田原節子」は本名ですが、最初の旧姓は「古賀節子」で、1回目の結婚で「村上節子」、2回目の結婚で「田原節子」となっています。

また、童謡歌手の古賀さと子さんは妹です。

田原節子は幼い頃から強い母親を尊敬し憧れていた

田原節子さんのお母さんは、若い頃は弁護士になりたいと思っていたそうですが、当時は、女性が弁護士の試験を受けることができず、泣く泣く断念したそうで、

(田原節子さんのお母さんが結婚したのは1934年だそうですが、女性が弁護士試験を受けられるようになったのは1936年からでした)

夫婦ゲンカをすると、決まって、

結婚するつもりはなかった。子どもも産むつもりもなかった

と、田原節子さんら子供たち(4人姉妹)の前で、言い放っていたそうです。

また、田原節子さんは、そんな自分というものをしっかり持っているお母さんを、幼い頃から尊敬し、また、お母さんが憧れの女性だったそうで、

田原節子さんは、お母さんについて、

ヘンな言い方だけど、自分に近いものを持っている女って、目をあわせれば分かるの。空気、みたいなものを感じるのね。

(ウーマン)リブ(女性解放運動)の時代なんて、まさにそんな感じだった。会ったわね、もうしゃべっちゃおう、みたいなね。そういう「同士」みたいなのを母親には感じてたのね。

と、語っています。

(田原節子さんのお母さんは、お父さんの夢であるピアノを創るという仕事を一生懸命支えていたそうですが、それがやっと軌道に乗り始めた矢先に戦争が始まり、世の中がピアノどころではなくなってしまったため、両親ともに自分の仕事を成し遂げることができなかったそうで、田原節子さんは、そんな時代を生きた両親のことをかわいそうだと思っているそうです)

田原節子は高校時代は女性でも就職できるよう早稲田大学に進学していた

田原節子さんは、そんなお母さんの影響を受け、仕事をしない人生が考えられなかったそうで、当時は、卒業後に女性でも就職できる大学は、男性並みの資格が得られる早稲田大学か慶應義塾大学しかなかったことから、

高校時代は、早稲田大学か慶應義塾大学に進学しようと思い、最終的に早稲田大学に進学したそうです。

ただ、田原節子さんが大学を卒業した1959年は、女子大学生はまだまだ少なく、女性の就職先は、新聞社、放送局(ラジオ・テレビ)、出版社(しかも「主婦の友」)だけだったそうで、テレビ局は、女性はアナウンサーしか募集していなかったそうです。

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田原節子は早稲田大学在学中に日本テレビのアナウンサーの試験を受けていた

そこで、田原節子さんは、日本テレビのアナウンサーの試験を受けることにしたそうですが、

(アナウンサーになりたかったわけではなく、アナウンサーしかなかったのだそうです)

なんと、「若干名募集」の枠に2500人もの女子学生が殺到し、試験はわずか30秒で終わったそうで、

田原節子さんは、

アナウンサーの試験ってね、9次まであるの。一番最初は、30秒。Aの扉、Bの扉二つあって、Aの扉から入ると、6人くらいの試験官が並んでる。呼ばれると、こつこつ開けて入って「失礼します」。

で、回れ右してドアをしめて、また一礼して、その後はAの扉からBの扉まで、歩く。真ん中で止まる。試験官の前を向く。そこで質問があったり、なかったり。

それからおじぎして、またBの扉から出ていく。だから、30秒試験。とにかく、アナウンサーしか受けられないわけだから、東京中の女子学生が受けたと思う。2500人受けたんです。「若干名」の枠に。

と、語っています。

「田原節子の若い頃はアナウンサーほか女性解放活動家も!経歴を時系列まとめ!」に続く

お読みいただきありがとうございました

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