3歳でバレエを始めると、当時、スター俳優だった阪東妻三郎さんにスカウトされて、4歳の時、映画「獅子の罠」でデビューし、以降、子役として絶大な人気を博した、松島トモ子(まつしま ともこ)さん。

今回は、そんな松島トモ子さんの子役時代の活躍や経歴を、生い立ちを交えて時系列でまとめてみました。

松島トモ子

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松島トモ子のプロフィール

松島トモ子さんは、1945年7月10日生まれ、
東京都目黒区の出身、
旧満州国奉天(現・中国東北部)生まれ、

身長は155センチ、

血液型はA型、

学歴は、
目黒区立東根小学校
⇒大東学園高等学校
⇒ザ・マスターズ・ハイスクール卒業(2年間留学)

趣味・特技は、タップダンス、モダンダンス、車イスダンス、英語での司会、読書、絵画、映画、スキューバダイビング、

ちなみに、本名は、松島奉子(まつしま ともこ)で、松島トモ子さんの生誕地である「奉天」に由来しているそうです。

松島トモ子は誕生してまもなく母親に連れられて命からがら日本に引き揚げるも父親は抑留されて死亡していた

松島トモ子さんは、三井物産の社員だったお父さん・高橋健さんと、お母さん・志奈枝さんのもと、お父さんの赴任地だった旧満州国奉天で誕生したそうですが、1945年8月15日、終戦をこの地で迎えると、お母さんに抱かれて日本に引き揚げたそうです。

しかし、この年の5月(松島トモ子さんが誕生する2ヶ月前に)に満州奉天で召集を受けたお父さんは、シベリアに抑留され生死も不明となったそうで、戦後4年経って、ナホトカ郊外の収容所で1945年10月29日に死亡していたことが判明したそうです。

ちなみに、お母さんは、現地の中国人から、

(良かれと思って)奥さん、赤ちゃんを置いていきなさい!死んでしまうから!

と、声をかけられたそうですが、

(多くの日本人が子供を置いていく中)お母さんは、赤ちゃんだった松島トモ子さんを手放さなかったそうです。

(引き揚げ船の中では病気が蔓延し、多くの子どもたちが命を落としたそうで、結局、無事に到着できた乳飲み子は、松島トモ子さんともう1人だけだったそうです)

松島トモ子は3歳の時に阪東妻三郎にスカウトされていた

こうして、九死に一生を得た松島トモ子さんは、3歳の時に、「石井漠舞踊研究所」でバレエを習い始めたそうですが、映画館の劇場ニュースで、石井門下の子供たちが「小さな豆バレリーナ」として取り上げられたところ、

(当時、映画館では上演前にニュース映画を流していました)

阪東妻三郎さんの目に留まったそうで、次回作の子役としてスカウトされたのだそうです。

ちなみに、松島トモ子さんは、バレエを習っていた理由について、

旧満州で日本人の女性が避難しているとわかるとソ連兵から暴行を受けかねない。だから窓ガラスに黒い紙を張って、暮らしていました。

10か月、日光を浴びられない状態で私は育っていたの。だから、『くる病』っていうんですか、右脚が曲がっていたんです。その脚の矯正のために、バレエを習ったんです。

と、語っています。

松島トモ子

松島トモ子は4歳の時に「獅子の罠」で映画デビュー

そんな松島トモ子さんは、1950年、4歳の時に、「獅子の罠」で映画デビューを果たすと、

以降、トントン拍子に進み、

  • 1951年「母子船」
  • 1952年「呼子星」
    「呼子星」
    「呼子星」
  • 1952年「母山彦」
  • 1952年「巣鴨の母」
  • 1953年「母の瞳」
  • 1954年「母恋人形」
    「母恋人形」
    「母恋人形」
  • 1954年「あんみつ姫」
  • 1954年「たん子たん吉珍道中」(3部作)
  • 1955年「赤いカンナの花咲けば」
  • 1955年「水戸黄門漫遊記 火牛坂の悪鬼」
  • 1956年「鞍馬天狗 御用盗異変」
    松島トモ子
    「鞍馬天狗 御用盗異変」より。
  • 1956~1957年「サザエさん」

など、数多くの映画に出演したのでした。

松島トモ子は8歳の時には「村の駅長さん/風にゆれるレイの花」で歌手デビュー

また、松島トモ子さんは、歌手としても、米山正夫氏の門下生となり、1953年、8歳の時には、「村の駅長さん/風にゆれるレイの花」で歌手デビューすると、

その後も、「三匹の子豚」(ディズニーの「狼なんか怖くない」のカバー)、「雨に唄えば」「杉作太鼓」「悦ちゃん」「ワカメちゃん」「怪傑黒頭巾」「赤いカンナの花咲けば」など、映画主題歌や挿入歌を歌唱しています。

松島トモ子
「村の駅長さん」より。

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松島トモ子は子役時代に雑誌「少女」の表紙を10年間一人で務めていた

そんな松島トモ子さんは、雑誌「少女」で、表紙を10年間一人で務めるほか、芸能雑誌「平凡」でも、雑誌モデルを務めるなど、華々しい活躍をしたのですが・・・

松島トモ子

松島トモ子さんは、

子役になるなんて……”と親戚中に泣かれました。女性の社会進出も少ない時代。小さい女の子を働かせるなんて“落ちぶれた”っていう意味です。

スカウトされて大喜びするなんてとんでもない! でも、しょうがないじゃないですか。父はシベリアで生死不明で、働き手がいないんですから

と、語っています。

一方、スターでなければできないこともあり、敗戦で日本中が貧しく、沈んでいる時代だったため、

松島トモ子さんには、子供なりに、

そんな日本のおばさんやおじさんを喜ばせて、元気にしてあげているんだ

という自負があったのだそうです。

(とはいえ、当時、映画界は深夜ロケも当たり前の時代だったため、子役といっても例外ではなく、松島トモ子さんも、子供時代の思い出は仕事だけしかないほど、仕事漬けの毎日だったそうです)

「【画像】松島トモ子の若い頃は?現在までの経歴を時系列まとめ!」に続く

松島トモ子

お読みいただきありがとうございました

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