新感覚派の作家として注目を集め、繊細な描写と日本の伝統美を融合させた独自の文体で、国内外から高く評価されている、川端康成(かわばた やすなり)さん。

そんな川端康成さんは、22歳の時に、初恋の相手といわれる伊藤初代さんと婚約するも、婚約からわずか1ヶ月後に一方的に婚約を破棄されて大きなショックを受け、以降の作品に大きな影響を及ぼしているのですが、伊藤初代さんには”或る非常”があったといいます。

今回は、川端康成さんの初恋の相手・伊藤初代さんとの、馴れ初め、婚約に至るまでの経緯、伊藤初代さんが婚約を破棄した”或る非常”についてご紹介します。

川端康成と伊藤初代

「川端康成の死因は?自殺ではなく事故?三島由紀夫の割腹自決も関係?」からの続き

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川端康成は初恋の相手・伊藤初代と婚約していた

川端康成さんは、1919年秋頃、20歳の時に、東京・本郷のカフェ「エラン」で、女給として働いていた伊藤初代さん(13歳)と知り合い、やがて、親しくなったそうですが、

その後、伊藤初代さんが岐阜に移り住んだことから、川端康成さんは、1921年9月16日、岐阜まで伊藤初代さんを訪ねたそうで、川端康成さんは、この時、伊藤初代さんと結婚することを決意したといいます。

そして、川端康成さんが、10月8日、再び、伊藤初代さんを訪ね、結婚を申し込むと、伊藤初代さんも受け入れたそうで、1921年、22歳の時に、15歳だった伊藤初代さんと婚約したのだそうです。

(伊藤初代さんは、福島の貧しい家庭の生まれで、9歳の時に母親と死別し、父親とも離れ、親戚などの家を転々としていたそうで、その後、上京し、カフェ「エラン」の女性オーナーの養女となっていたそうですが、その後、カフェが閉店したことにより、伊藤初代さんは、オーナーの姉が嫁いだ岐阜県のお寺「西方寺」で暮らすようになったのだそうです)

川端康成と伊藤初代は手紙で遠距離恋愛をしていた

そんな川端康成さんと伊藤初代さんが交わした書簡計11通が、2014年、川端康成さんが暮らしていた鎌倉市内の自宅から見つかっているのですが、

11通のうち10通が、伊藤初代さんから川端康成さんに宛てたもので、残りの1通は、川端康成さんが伊藤初代さんに宛てて書いたものの未投函の手紙だったそうですが、

川端康成さんが書いた手紙には、伊藤初代さんから返事が遅れていることについて、

恋しくつて恋しくつて、早く会はないと僕は何も手につかない

本当に病気ぢやないのかと思ふと夜も眠れない

などと、伊藤初代さんへの思いが綴られていたといいます。

(書いた時期は不明ですが、文面から1921年10月下旬以降とされています)

また、伊藤初代さんも、

私の様な物を愛して下さいますのは私にとってほんとうに幸福なことです

と、綴っており、2人がとても強く結ばれていたことが分かります。

川端康成は初恋の相手・伊藤初代に一方的に別れを告げられていた

こうして、川端康成さんと伊藤初代さんは、東京と岐阜の遠距離恋愛ながらも、手紙で順調に愛を育んでいたのですが・・・

この年(1921年)の11月初旬、岐阜にいる伊藤初代さんから、

私はあなた様とかたくお約束を致しましたが、私には或る非常があるのです

と、一方的に別れを告げる手紙が届いたそうで、

川端康成さんは、すぐに電報を打って、翌日、岐阜・西方寺まで伊藤初代さんに会いに行くと、その後も、手紙のやり取りをしたそうですが、

11月24日には、伊藤初代さんから「さやうなら」と告げる最後の別れの手紙が届いたのだそうです。

それでも、諦めきれない川端康成さんは、その後も、伊藤初代さんに会いに行くなど様々な努力をしたそうですが、ついに伊藤初代さんは、川端康成さんの前から完全に姿を消してしまったのだそうです。

(伊藤初江さんは、13歳年上の中林忠蔵さんというカフェ「アメリカ」の支配人と結婚することになったのだそうです)

川端康成の初恋の相手・伊藤初代が結婚の約束を果たせなかった理由の”或る非常”とは?

ちなみに、伊藤初代さんが川端康成さんとの結婚の約束を果たせなかった理由である”或る非常”について、

伊藤初代さんの手紙には、

それを話すくらいなら「死だほうがどんなに幸福でせう」

と、書かれていたそうですが、

2019年、伊藤初代さんの三男の桜井靖郎さんが、”或る非常”とは、伊藤初代さんが他の男に乱暴されたことだったと明かしています。

(桜井靖郎さんは、この事実を知った当初、「死ぬまで(言わずに)持っていこう」と思っていたそうですが、川端康成さんとお母さんの手紙が見つかり、2人の関係を研究者らに話すうち、「事実を伝えたい」との思いが増し、公表することにしたのだそうです)

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川端康成は初恋の相手・伊藤初代との破局の影響で「ちよ物」(「南方の火」「篝火」「非常」「霞」)を執筆していた

伊藤初代さんは、このことを、勤め先だったカフェの近くにあったたばこ屋の女性に告白していたそうで、

その女性が川端康成さんの友人に話し、川端康成さんはその友人から伝え聞いたと言われているのですが、

そのことについて、川端康成さんがどのように思ったかは不明です。

ただ、川端康成さんにとって、一度は結婚を受け入れてくれた伊藤初代さんとの破局はショックが大きく、その後何年も尾を引いたそうで、作品にも大きな影響を与え、「南方の火」「篝火」「非常」「霞」などの題材になったと言われています。

(これらの作品は、研究者からは、「ちよ物」(伊藤初代さんは「ちよ」と呼ばれていたことから)と呼ばれています)

「川端康成の妻との馴れ初めは?子供は?従兄弟の娘・政子を養女にしていた!」に続く

お読みいただきありがとうございました

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